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2018.07.20 Friday

移動

福岡中央郵便局の隣のスタバ
本州だけでなく、九州も暑い。
鷹の祭典
天神地下街は相変わらずの活気。
都市高速
福岡の空は本当に広い。市街地から空港が近いので、高い建物がないからである。
すなわち、許可なくドローンが飛ばせる場所もかなり少ない。飛行機の進入表面に含まれるので、志賀島も、相の島ですらアウト。
福岡サンパレス
福岡サンパレス。近隣に2500席ほどの新しいホールが完成したら解体される。ウォーターフロント地区再整備構想によるものだが、「航空法による高さ制限が特区によって緩和された為、高さ100メートルのビルを建てれるようになっており、風景が一変する可能性が高くなっています。」とあるので、高さ制限にも例外はあったのだな。

20:30 | Fukuoka | - | - | |
2018.05.31 Thursday

猪野銅山

チャン・ダイ・クアン国家主席夫妻来日
今日の永田町には日越の国旗が。昨日、ベトナムのチャン・ダイ・クアン国家主席夫妻が国賓として宮中晩餐会に招かれたそうだ。

さて、本題。福岡の粕屋郡久山町にある伊野天照皇大神宮は、大自然の中にひっそりと佇む、九州の伊勢とも言われる由緒正しい神社。付近は清流が清々しい音を奏で、この時期になると蛍が見られる場所もある(正確に書くと、あった。最近は知らない)。場所は猪野にあるのに伊野の字が社号になっているのは、伊勢の伊から取ったのだろうか。

猪野は、かつての糟屋郡山田村、現在の久山町に位置する。ここにはかつて銅山があったらしい。しかしながら、資料が極めて少なく、その全貌が見えてこない。かろうじて見つけた文献「明治工業史 鉱業編」(昭和5年8月30日 日本工学会啓明会)によると、
銅剣、銅鉾、鎔範および銅の滴粒等は、古来多く筑前、筑後地方より出土したるが故に、世に筑紫鉾の稱あり。其の他、豊前、豊後、安芸、讃岐等の十四箇国に亙りて、古墳より発見せられたるものまた同性質たり。その種類別に関する高橋健自の研究によれば、銅鉾に廣鉾、狭鉾の二種あり。銅剣にクリス形廣鉾・クリス形狭鉾・平形細形及び鉄剣・小銅剣の五種あり。又、鎔範の古来出土せるものは、廣鉾・銅鉾・鎔範十箇及びクリス形廣鉾・銅剣・鎔範四箇にして、何れも筑前筑紫郡・糸島郡及び遠賀郡に於いて発見せられ、材料は砂又は土に非ずして石を以て作らるると謂ふ。其の鋳口には焦げたる跡あり。又、往々銅滓の附著したるものあるより推測すれば、蓋し其の地方に於いて銅剣鉾の鋳造に用ひられたるものなるべし。且、中山平次郎が筑前糸島郡潤字土師の遺跡に於いて銅の滴粒を発見したるより察すれば、既に先史時代に於いて銅を以て剣鉾を鋳造したるや其の疑ひ無きが如し。而して其の原料たる銅は、此の地方に産出せしや、将又、支那より輸入せしやは、随って起こる問題なり。産地としては筑前に糟屋郡猪野銅山地方あり。筑後八女郡高良山の南麓に横山村の産銅地あり。故に此等地方の銅鉱脈露頭部より、自然銅を採取して鋳造の原料に供したりとも考へられざるに非ざれども、銅剣の成分たる錫に至りては、近国薩摩の谷山・豊後大野郡・日向の見立等の産地あるも、何れも深山中に在りて、原始時代早く発見せられたりとも思はざれば、畢竟、銅と共に剣鉾鋳造の地金として、支那より船載せられたるものなるべし。」
…と、あくまでも銅の産地があるという記述だけだ。
一方、筑豊産炭地と「友子」には、糟屋郡山田村猪野銅山には石見出身の友子(友子とは炭鉱労働者の共済組織のこと)が多いという記述があり、それまでの経緯などは興味深いところである。

20:00 | Fukuoka | - | - | |
2018.04.16 Monday

500 TYPE EVA Cafe

博多駅新幹線改札内にあるエヴァカフェの営業終了日が2018年5月31日(木)に決まったらしい。
2015年11月7日から運行していた 500 TYPE EVAが2018年5月13日(日)にラストランを迎えるためである。閉店後は元のカフェ・エスタシオンに戻るそうだが、元々のメニューがどのようなものだったかをすっかり忘れてしまった。

コアをイメージしたケーキ、トッピングはオリジナルマカロン、福岡県産あまおう苺を使用したスイーツプレート。…そう言えば、こないだ注文した時に特製コースターはもらえなかったぞ。お店の人が対象者を絞ってたんだろうか 笑。

23:55 | Fukuoka | - | - | |
2018.03.27 Tuesday

20時間

富士山
夜遅く報せを聴いて、翌朝、取るものも取りあえず新幹線に飛び乗った。
こういう日に限って、車窓から見える、蒼昊に見守られた風景があまりにも美しい。

琵琶橋公園の桜
覚悟はしていた事だけど、とても悲しい、たった20時間の滞在だった。
それでも、かつて一緒に遊んだ懐かしい場所はひと通り訪れることができた。

琵琶橋公園
さすがに泳ぎはしなかったけど、ここでよく遊んだっけ。

筥崎宮大鳥居解体開始
筥崎宮大鳥居の前も通ることができたが、折しも昨日から解体作業がスタートしたらしく、全てが覆われて見えなくなってしまっていた。
国道から見るとカメラの視野に入りきれないほどの高さだった事が改めて分かった。

今回の滞在の締めくくりは、図らずも500 TYPE EVA Cafe になってしまった。ここも期間限定カフェで、平成30年春までの営業との事だ。
そう言えば先ほどお坊さんがお経で、生あるものは必ず滅し、形ある物は必ず壊れる。愛があれば必ず別れがある…と読まれていたな。

23:55 | Fukuoka | - | - | |
2018.03.18 Sunday

筥崎宮と名島橋

筥崎宮の大鳥居が解体されるらしい。

国道3号線を北九州方面に進むと右手に見えるこの大鳥居は、幅が約14メートル、高さが16メートルもあり偉容を誇っている。1930(昭和5)年に建てられてから88年、福岡市東区のランドマーク的な存在であり続けた。
毎年9月の放生会にはここから露店がずらりと並び、夏至の頃には太陽と大鳥居と本殿が一直線になるため、参道に"光の道"が現れる。
扁額に書かれた「八幡宮」は当時の松本学知事の揮毫による。松本氏は福岡県知事時代、九州にワイン栽培業を普及させたり、博多織のしっかりとして光沢があり長持ちする特徴を生かしてネクタイを作ることを提案するなど、多くの功績を残している。国会図書館の県政資料室にも多くの松本家文書が存在するほどの人物である。大鳥居のために寄進した、当時の県議会議長・林田春次郎氏もやはり多方面で活躍しており興味深い人物だ。
この鳥居に関する逸話や思い出は尽きないが、老朽化でモルタルが剥がれ落ちそうになっていたり、所々ひび割れしている箇所もあるので、安全確保のため解体が決定したようだ。
再建には5億の費用が見込まれる。もう復活する予定はないとの事、多くの人に惜しまれている。

寂しくなるニュースがある一方、喜ばしいニュースもある。筥崎宮を通り過ぎ、国道3号線をさらに北九州方面に進むとさしかかる名島橋が、国有形文化財に登録されるという。全長204メートル、幅25メートル、7つのアーチから成る鉄筋コンクリート製のこの橋、親柱にある花崗岩の半球なども含め、優美な装飾が評価されたらしい。
名島は今でこそそれほど有名な場所とは言えないが、戦前は水上飛行場があり、大阪や上海への定期便が就航する要所だった。1931(昭和6)年にはリンドバーグも飛来した。そして名島橋は、戦時中に飛行場が攻撃された時に滑走路代わりに使用される予定だったとか、戦車が通れる橋として構想されていたとか、空襲を避けるため黒く塗装されていた時代もあったとか、様々な逸話がある。
そんな重厚な歴史をもつ立派な名島橋だが、12月頃になるとなぜかサンタのコスプレもさせられてしまうお茶目な橋でもある。

00:00 | Fukuoka | - | - | |
2018.02.12 Monday

「九州演劇」昭和21年7・8月号(その2)

前回の記事で述べたとおり、七代目市川團十郎が博多に来演したのは、1834年(天保5年10月)である。博多の老若男女が江戸大歌舞伎を初めて迎えたのがおそらくこの時であり、時代は岩崎弥太郎や福沢諭吉が生まれる数ヵ月前という頃だ。
薩摩には "爺さん婆さんなご生きやい、米も安なろ世もよかろ、辯天芝居がまたござる…" という民謡があるくらいで、九州の果てでは千両芝居といった歌舞伎を見ることが当時非常に稀なことであったと、佐々木滋寛(ささきじかん)氏(1899-1976 千代町松源寺重職・民俗学研究家)は述べている。

やがて明治時代に入り、交通機関が発達し劇場も新しくなった頃、博多では二代目市川左團次が人気を誇っていた。
彼は1911(明治44)年8月、32歳の時に初めて博多にやってきた。劇場は当時新築後間もなかった東公園の千代の松原の中にあった博多座。(余談だが、この劇場は当時客足が芳しくなく、戦後は占領軍のキャバレーとして復活したという。)
1906(明治39)年9月に二代目左團次を襲名、その3カ月後にフランス、イタリア、ドイツ、イギリス、アメリカを経て翌年帰国した。西欧演劇界で得た新しい知識を日本でも取り入れようとしたが、なかなか受け入れられなかった。しかし松居松葉、山崎紫紅、岡本綺堂などの新戯曲を上演、1909(明治42)年11月には「自由劇場」を旗揚げ、イプセン作 森鴎外訳『ボルクマン』を上演するなど、西洋近代劇の紹介に先鞭をつけた。その後も矢継ぎ早に上演、まさに油の乗った時期に一門を引き連れて博多に乗り込み、新歌舞伎の批判を博多の人々に問うたのである。

博多座では『仮名手本忠臣蔵』の中幕として岡本綺堂『修善寺物語』が演じられた。彼が自分の本領を世に問う野心の狂言だった。
1912(明治45)年7月、彼の一座は再び博多座を訪れた。演目は序幕『だんまり』前狂言『夜討曾我狩場曙』中狂言『引窓』切狂言『慶安太平記』の通しだったが、前回よりはあまり成功しなかった。因みに、この時出演記念として博多座に納めてあった大額には当時の劇場構成員の細目が記されており、佐々木滋寛氏が早稲田演劇博物館に寄贈したという。地方劇場研究の貴重な資料である。これまた余談だが、博多座は当時松原の中にあり、夏は蚊が非常に多く、忠臣蔵で切腹した判官が蚊に刺されて困っていたとの事。

1912(大正元)年、新劇団の地方出演としては破天荒な「自由劇場」の博多上演が行われた。劇場は東中州の明治座で、左團次は長田秀雄『歓楽の鬼』の遠藤博士、山崎紫紅『底倉の湯』の新田義隆、ストリンドべリ作 小山内薫訳『犠牲』の父デュランを演じた。この上演は急遽決定したので衣装や小道具類の手配がとても間に合わなかったにも関わらず、一座の熱演と新劇への期待で大成功を収めた。スウェーデンの巨匠ストリンドベリの名作『犠牲』が博多の人々にどれほどの大きな衝撃を与えたのか。左團次の燃えるような熱意と、博多人の新しいものを受け容れる精神が、地方における新劇の啓蒙に大きく寄与したことは言うまでもない。

その後も左團次は博多を何度も訪れ、その度に新しい歌舞伎をもたらした。
1932(昭和7)年3月に『鳴神』と『皿屋敷』、1936(昭和11)年に『修善寺物語』と『鳥辺山心中』、1938(昭和13)年には『名君行状記』『箱根仇討』などを演じた。とくに『名君行状記』の池田輝政は「阪東壽三の青地善左衛門を向こうに回して息もつかせぬ面白さであった」と佐々木滋寛氏は述懐している。
1938(昭和13)年6月には『先代萩』『慶安太平記』『尾上伊太八』などを出した。
1939(昭和14)年6月に『大杯』『西山物語』などを出したのが博多における左團次の最後の来演となった。この時は水虫に悩まされ活気に乏しかったようだ。翌1940(昭和15)年、61歳でこの世を去るまでに、あらゆる困難を克服して自由劇場を開演、地方劇壇に新しい時代感覚を伝えたことは、彼が1928(昭和3)年、ソ連(ロシア)にて史上初の歌舞伎海外公演を行った功績とともに忘れてはならない。


上記記事の引用元「市川左團次と博多」には旧字や歴史的仮名遣いが多く、文章を読んでまとめるのには結構苦労した。ただ、ネット検索すると東京の歌舞伎の歴史は情報が比較的多く出てくるが、昔の博多の歌舞伎事情などなかなか出てこないので、今回は目から鱗が落ちる思いだった。あと、昔の人って偉大。

23:55 | Fukuoka | - | - | |
2018.01.22 Monday

「九州演劇」昭和21年7・8月号(その1)

九州演劇昭和21年表紙
九州演劇昭和21年
九州演劇昭和21年
九州演劇 昭和21年7・8月号

変色した紙、錆びた綴じ具、炭鉱復興歌詞募集の記事などが時代を感じさせる。
この中に、佐々木滋寛氏による「市川左團次と博多」なる記事を発見。

本格的な江戸の歌舞伎が博多に渡って来たのは、天保5年7月、七代目市川團十郎(当時は既に海老蔵を襲名していた)が、
中山新九郎、嵐三右衛門、浅尾奥山などを引き連れて来演したのが最初

とある。
記事では、市川左團次のその後の活躍、当時の博多の演劇界の様子からスウェーデンの作家ストリンドベリに至るまでが語られている。これについては稿を改めたい。

直系の祖先の一人が映画の助監をやっていた。
関東大震災と太平洋戦争に巻き込まれ、かろうじて生き延びるも、終戦後まもなく若くして志半ばで亡くなった。そんな彼がこの世で最後に読んだ本が、この「九州演劇」昭和21年7・8月号である。病床日記に記されていた事実だ。

この九州演劇を読んでからというもの、戦争で被災する夢を二日連続で見てしまった。彼は戦争で壊滅的な被害を受けた数日間の様子も書き遺しているのだが、その描写そのままのリアルな光景が夢に出てくるのは何度目だろうか。
そんなこんなで夜は眠れず疲れが取れない上に休日もなく、今日は大雪!呼吸も苦しいし少し熱もあるのだが、これは祖先たちが腰の重い子孫に、早く論文の続きを仕上げろ!と訴えかけているのだろうか。きっとそうに違いない。

2018年1月22日の雪
これ、コーンです。

2018年1月22日の雪
高田馬場駅入場制限

2018年1月22日の雪
バス停は長蛇の列

23:55 | Fukuoka | - | - | |
2017.08.26 Saturday

夏の終わりに

この夏を締めくくる演奏会の前日、懐かしい箱崎に立ち寄った。こんな色の空は久々に見る。
筥崎宮の夕方の風景

筥崎宮の近くにある県立図書館には、学生時代よく通ったものだ。
バイトに行く前に実験レポートを書く目的だったが、いざ館内に入ると面白そうな小説やら、絶版図書など蔵書の誘惑にかられ、レポートは結局バイトが終わって帰宅して夜中に書いたっけ。

この箱崎宮周辺には、昔は屋台がもっとたくさんあった。
今も「花山」は健在で、九大のキャンパスが移転してからも賑わっている。
いつ行ってみても、大将は必ずすべてのお客さんと一度は会話している。
どこかのWebサイトに「福岡に転勤したビジネスマンは、まず花山を訪れるべし」と書いてあった意味が何となく分かるような気がする。
箱崎 花山
箱崎 花山の焼き鳥箱崎 花山のラーメン

演奏会が終わったあと、これまた久々に天神を散策。
昔はこんな風景じゃなかったよなあ。
キャナルシティ

00:00 | Fukuoka | - | - | |
2014.04.17 Thursday

ダムに沈んだ村 その2

2009年の暮れに書いた、ダムに沈んだ村 http://blog.harp.tv/?eid=1155867 の詳細。

かつて、家からそう遠くない場所に、神秘的な静寂の世界があった。
冬から春にかけては梅の花が美しく、初夏にはホタルが舞い、いつ行ってみても誰ひとり人とすれ違うこともなく、聞こえるのは竹林のそよぐ音だけ…というその場所は、左右を山に挟まれ、その間を縫うように一本の道が通っていた。山肌には時おり防空壕の跡も見られ、時代から取り残された感があったが、ごく少ないながらも道沿いに数軒の民家も見られた。

たまたまある日そこに迷い込んでその場所を知ったのが契機となり、その日からすっかり魅了され、時には友人を連れて散策したりもした。友人もその静寂の世界に驚いていたのを記憶している。

それからほどなくして、その村落一帯はダムに沈んでしまった。
2009年暮れ、久々に見に行くと、あまりにも様相が変わってしまっており、かつて自分が歩いた道がどのあたりにあったのかもさっぱり分からない状況だった。

さらに4年余り経過した先日、ちょっと興味が湧いてきたので、かつてのその村落がどう変貌を遂げたのかを調べてみた。
地図に色を塗るなんて何年ぶりだろうか。

【Before】1984年頃の様子
1984年頃の長谷

【After】2013年の様子
2013年の長谷

こうして比較してみると、一目瞭然だった。
かつて歩いた道も、ひっそりと佇んでいた民家も、すっかり水に沈んでしまっていた。
今ではダムを取り囲むように車道やトンネルがうねっている。

前回の記事を書いた時は、Debussyの「水の反映」を思い起こしていたが、今回は「沈める寺」を思い出した。
かつて、イスという街があったが、ある日、神の不興を買い一瞬のうちに街がまるごと海の底に沈められてしまう。
ある晴れた日、海の底に沈んだイスの街が波間から浮かび上がり、教会の鐘が鳴り、僧侶たちの合唱が聞こえ、やがて再び海の底へ消えていく…というケルトの伝説に基づいたピアノ曲である。
(「沈める寺」は和音の響きがとても神秘的で、ハープで演奏しても良さそう…音の響きを消さないで済むよう、複数台のハープで演奏するのも効果的だと思う。やってみないと何とも言えないけれど。)

ダムに沈んだ現代の街(村)は、ちょっと人工的すぎていて「沈める寺」の世界とはイメージが全然合わない。
ただただ、あの場所が本当に水の底に沈んでしまったんだなあという寂しさが残るばかりである。

2014.04.16 Wednesday

古地図に遊ぶ [1]

現行の小学校理科の指導要領では、小6で地層の学習を行なうことになっている。
地層を実際に観察する際は、軍手を着けて、岩石ハンマーを慎重に取り扱う。
小5で学習した、流れる水の「運搬」「堆積」「侵食」のはたらきを思い出しながら、地層のでき方や断層、褶曲、地震に火山、化石…といった内容を学習することになる。
そしてなぜかこの単元の授業時数は他の単元より多く設定されている。
しかし、都市部の学校において、実際の地層を観察することなど不可能である。仕方がないのでAV教材やら調べ学習に頼ることになるのであるが、これでは ”実感を伴った理解” など望めない。
また、どの学校にも岩石や火山噴出物、化石などの標本が潤沢に揃っているわけでもなく、地学が得意な先生がそうたくさんいるわけでもなく…何となく持て余されがちな単元でもあるように感じる。

自分自身は幸いなことに、自然豊かな地域で小学校時代を過ごしたので、小学校高学年の理科授業でも実際の地層を観察することができた。
その地層があったのは、牧の鼻という岬である。
今でもその地層は観察できる状態なのだろうかと調べていくうちに、古地図にたどり着いた。

「牧の鼻」の地名は、伊能全図では「タヲサ鼻」となっている。タヲサ=田の長 という意味か?
他の地図には「牛ヶ鼻」「タコサ鼻」などの表記もあり、地名の変遷はよく分からない。
一説によると、「牧」は「巻き」のことで、海を巻き込むようにうねる地形であるのが地名の由来であるらしい。
なお、角川地名総監には、以下の記載がある。

「 [かすみがおか] 香住ヶ丘
昭和31年から現在の町名1〜7丁目がある。はじめ福岡市、昭和47年からは同市東区の町名。もとは福岡市浜男唐原の各一部。町名はこの付近の字名霞ヶ丘と香山にちなむ。
昭和25〜37年に県営住宅が建設されたことから住宅地として発展。一帯は博多湾に面した小高い岬をなし、突端に牧の鼻の地名もあるが、近年、隣接地域の海岸埋立てにより地形的特徴はうすれつつある。
西鉄香椎花園前駅には昭和14年創業の遊園地香椎花園がある。近年は公共施設の建設が進む。同56年の世帯数2,630。地内の琵琶橋は盲僧が琵琶を橋にして溝を渡った故事に由来する地名という。
昭和56年唐原の一部を編入。」

ある人物が言うには、博多湾には昔はクジラも泳いでいたらしい。
(その人物は戦後間もない頃、雁ノ巣飛行場の進駐軍にチョコレートをもらっていた年代である。)
その博多湾も今では埋め立てられ人工島が出現、すっかり様子が変わってしまっているが、渡り鳥の中継地点であり学術的にも重要な和白干潟の北端に位置する牧の鼻は、少なくとも地図上ではその原型を留めたままである。
但し、地層が現存しているかどうかは、地図を俯瞰してみても分からない。

1993年6月10日香椎花園裏の海岸からの眺め
1993年6月10日の香椎の海岸の光景。香椎花園の裏から撮影。福岡アイランドシティは、まだない。
空に見えるのは B747-400 の機影。

調べていく中で、近年ネット上に増えてきたデジタルアーカイブという形で、現地周辺の古地図が充実していることを知った。
江戸近辺の古地図はネットに限らず頻繁に見かけるが、地方都市近郊の古地図でもこのように世界中から閲覧できるというのは非常に有難く、楽しい。
縮尺が20万〜70万分の1で、細部までは分からないが俯瞰するには十分である。
その古地図から周辺の様子も拾ってみた。

■1904(明治37)年の地図
和白が「Washiro」、唐の原が「Tobaru」、志賀島が「Shiga Shima」と表記されている。
牧の鼻が「牛ヶ鼻」と表記されており、そのすぐ東側に「石炭坑」も。
【出典】福岡県立図書館郷土資料課 福岡県の近代地図
http://www.lib.pref.fukuoka.jp/hp/gallery/kindaitizu/H23/kakudai/zoomi744a.htm
「福岡湾日本九州北岸」54×78cm 水路部(印刷者、発行者)日本郵船株式会社(販売所) 第190号

■1913(大正初期)の地図
牧の鼻が「タコサ鼻」、香椎が「かしゐ」、遠賀川が「をんががは」と表記されている。
【出典】福岡県立図書館郷土資料課 福岡県の近代地図 
http://www.lib.pref.fukuoka.jp/hp/gallery/kindaitizu/H24/kakudai/0490766a.html
1913 * 大正初期 46×34 東京雄文館(発行) 30万分の1
福岡県里程図、福岡市・小倉市・門司市・久留米市図あり。
裏面:福岡県地理、官庁所在地、各学校所在地

■1913(大正2)年の地図
牧の鼻が「タヲサ鼻」、和白が「わ志ろ」
【出典】福岡県立図書館郷土資料課 福岡県の近代地図
http://www.lib.pref.fukuoka.jp/hp/gallery/kindaitizu/H24/kakudai/0490770a.html
福岡県全図 1913(大正2)年 37×50cm 和楽路屋(発行者) 27万7千分の1
管内里程図、福岡市・小倉市・久留米市図あり。
裏面:福岡県地誌、公庁所在地

■1926(昭和元)年の地図
牧の鼻が「牧ノ鼻」と表記。
【出典】福岡県立図書館郷土資料課 福岡県の近代地図
http://www.lib.pref.fukuoka.jp/hp/gallery/kindaitizu/H23/kakudai/zoomi772a.htm
日本交通分県地図其二十八福岡県 1926(大正15)年 54.2×76.6 大阪毎日新聞 21万分の1
福岡県管内里程図 福岡市(3万分の1)大阪毎日新聞15551号附録 東宮御成婚記念

■1933(昭和8)年の地図
ここで初めて「長谷」の地名が登場。
【出典】福岡県立図書館郷土資料課 福岡県の近代地図
http://www.lib.pref.fukuoka.jp/hp/gallery/kindaitizu/H24/kakudai/0490710a.html
1933(昭和8)年 37×52 駸々堂旅行案内部(発行所) 25万分の1
管内里程図、筑豊炭坑図、記号
裏面:福岡県名勝地誌、諸官衙公庁所在地

■1955(昭和30)年の地図
雁ノ巣飛行場の記載あり。福岡県立図書館デジタルアーカイブで現在公開されている、この年以前の地図には雁ノ巣飛行場の記載はない。
雁ノ巣飛行場に関しては、日本国内のいくつかのblog等で紹介されているが、Brady Air Base で検索すると、海外の元・進駐軍関係者のサイトにも興味深い記事がたくさん出てくる。

この地図は、裏面の「鉄都八幡」「関門港夜景」の写真も良い。この時代の撮影技術で撮られた、工場地帯の夜景写真も最近よく見かける写真集とはまた趣きが異なっていて美しい。
"「出船千艘に入船千艘、門司は日本の玄関口」、関門両市の灯、海にまたたく灯影正に絶景で旅愁を慰む。"
【出典】福岡県立図書館郷土資料課 福岡県の近代地図
http://www.lib.pref.fukuoka.jp/hp/gallery/kindaitizu/H23/kakudai/zoomis30a.htm
1955(昭和30)年 52.5×77 内外地図株式会社(製作)福岡県 20万分の1
土地利用図(70万分の1)地質図(70万分の1)
裏面: 福岡県勢要覧(昭和30年版)、福岡市街図、名所写真入り
外包紙:福岡県勢要覧 昭和30年度版 福岡県統計課


古地図を楽しめたのは良いけれど、結局、大昔に観察した地層がどのあたりにあったのかは分からなかった。
この校区の学校に通う今の児童たちは、地層の授業はどうしているのだろうか。

インターネットの良さは、最新の情報が即時に入手できる点だと思っていたが、インターネットやデジタルカメラが普及し始める前のデータが少ないのが最近気になっていた。
しかしながら最近は数十年前の写真をネット上に掲載している人も増えてきており、Panoramioなどにもかなり古い写真が投稿されているのを見ると嬉しくなる。ネットユーザーの年齢層が厚くなるにつれて過去のデータも充実してくることを期待している。

1982年頃の奈多〜三苫海岸の地層
1982年頃の奈多〜三苫海岸の地層。

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