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2018.11.14 Wednesday

Tribunal militaire international pour l'Extrême-Orient :70 ans après

先日WWI終結100年の話を書いたばかりだが、今日はある人が東京裁判終結70年に関する新聞記事を送ってくれた。
文官としては唯一、A級戦犯として裁かれ露と消えた廣田弘毅。福岡県出身で初めて首相となった人物なので、このブログでも以前書いていた事を覚えていてくれていたらしく、とても有難い。
その記事には、廣田氏のお孫さんのコメントが写真入りで掲載されている。容貌がお祖父さんにとてもよく似ておられる。
城山三郎氏の「落日燃ゆ」で描かれた祖父の印象が世間では強かったようで、幼少の頃に学校で理不尽な目に遭ったりはしていなかったという。

絞首刑を宣告された7名は、2つのグループに分かれて、その時を迎えていた。
廣田弘毅は2番目のグループにいた。
ふと、1番目のグループの誰からともなく、万歳三唱をしよう、という話が持ち上がり、その万歳の声は2番目のグループの皆の耳にも届いてきた。
やがて、1番目のグループの刑が執行された。次は2番目のグループの番だ。

教誨師の花山氏に廣田は言った。
「今、漫才をやっていたでしょう?」
花山氏「いえ、そのようなものはやっておりません」

仏間に入り、読経のあと、廣田はまた言った。
「このお経のあとで、漫才をやったのではないか」
花山氏は、ああ、万歳ならやりました。それでは、あなたがたも、ここでどうぞ、と促した。

廣田は「あなた、おやりなさい」と、傍にいた別の者に促し、廣田は万歳には決して加わらなかった。

万歳を叫び、日の丸を押し立てて突き進んで行った先には何があったのか。
この期におよんでも、なお万歳を叫ぶのは、もはや漫才でしかないではないか…
廣田の痛烈な、最後の皮肉であった。

城山三郎「落日燃ゆ」にはこんな一節があったと記憶している。
実際にこのような会話のやりとりが行われたのかどうかは、定かではない。
廣田弘毅は、若い頃は駄洒落を飛ばすことも多く、その親父ギャグあふれる皮肉を散りばめた、数々の句が残されている。
後年は「自分のやってきた仕事が自分の全てであり、何らかの手記や辞世の句、遺言などを残すつもりはない、自然に生きて自然に死ぬまでだ」と、述べ、それは、若い頃から親しんできた、禅や論語のような東洋思想に基づく、彼なりのやり方なのであろう。
ともあれ「漫才」に関しては時々、議論にもなっているようだ。

廣田弘毅の長男の話では「父は一流の男でした。父はそういう冗談を言うような人ではなかった。」との事。
しかし、自分の父親の、家庭の外側での顔というものを理解している息子は、果たしてどれほどいるものなのだろうか。
また、別の文献では、博多弁では「万歳」を訛って「マンザイ」と言うのではないか、という仮説に基づき検証していたが、どうもはっきりしない結論に終わっていたようである。
個人的には、博多弁でそういう訛りがあるかというと、それはちょっと違うような気がする。ただ、どの地方にも年配の人や、鼻にかかったような声を出す人の中には、「バ」が「マ」に聞こえるような発音の人もいる。

別の視点から、花山教誨師と廣田氏との軋轢(というほど大袈裟なものではないにしても)を挙げる研究家もいる。宗教や思想上の考えの違いから、双方が相容れないものを感じていたため、花山氏が廣田氏について語っている部分には、「漫才」の話も含め、事実と異なる部分もあるのではないか、というわけである。こればっかりは、もう今となっては調べる術もない。

結局、謎は謎のままということにするしかないのかもしれない。70年も昔の話である上に、刑場での会話など状況が特殊すぎて、検証できなさそう。
(注: 2006年夏に出版された、小林よしのり著「いわゆるA級戦犯」によれば、廣田弘毅がこんな駄洒落を言うような人間だったならば、東京裁判で「軍が悪い」と証言したはずである、という説を展開している。そう言われてみれば、そうかもしれない。)

ある伝記には、執行に立ち会ったアメリカ人の談話として「廣田はまるで神のようだった。毅然として黙々と死の階段へと赴いた。その姿があまりにも神々しかったのが、今でも忘れられない」ともある。
この話も、本当に事実なのかどうかは不明だが、この手の伝説が作られやすいというのも、廣田弘毅のひとつの特徴のように思えてならない。

本題からは離れてしまうが、疑問がもう一つ。
この理不尽な顛末の直後、刑場からは、大変美しい音楽が流れてきていたと言われている。
この曲はいったい何だったのか、そもそもクラシック曲なのか日本の流行歌なのか、音楽好きとしては非常に興味深いところであるが、どこにもその曲に関する具体的な記述はない。
とても知りたい。大変美しい音楽というのが気になるところ。

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2018.07.30 Monday

Emil Wiegand 覚え書き

麒麟麦酒の前身となった、スプリング・バレー・ブルワリーの設立に関与したドイツ人醸造技師エミル・ヴィーガント(Emil Wiegand)に関する覚え書き。
ノルウェー生まれのウィリアム・コープランド (William Copeland 本名はヨハン・マルティニウス・トーレセン Johan Martinius Thoresen 1834-1902)というアメリカ人が、エミル・ヴィーガントというドイツ人とともに、横浜山手のきれいな泉の沸く天沼のほとりにビール醸造所を設立、「スプリング・ヴァレー・ブルワリー(泉の谷醸造所)」と命名した。これが日本最初のビール工場であり、通称、天沼ビールと呼ばれる製品を世に送った。

このヴィーガントという人物、コープランドと比較しても、生年や人となりを示すデータがなかなか見つからない。(そもそも、同姓同名が多すぎる。せめて生年だけでも分かれば絞り込めそうなのだが。)

文献を追ってまとめると、
 ドイツ南部、オーストリアとの国境に近いバイエルン地方(英語読みではババリア)にて出生(生年不明)
→横浜山手46番 ジャパン・ブルワリーの支配人兼醸造技師として米国で契約
→1869(明治2)年ヴィーガント来日。「ジャパン・ブルワリー」(日本で最初のビール製造)創立者G・ローゼンフェルトは技師ヴィーガントを招いて山手46番地で醸造を開始。その後間もなく、会社をL・クラインに委譲。
→ヴィーガント退職
→1870(明治3)年、山手68番に「ヘクト・ブルワリー」設立、J・B・N・ヘクトがヴィーガントの参加を得て営業
→解雇され、再び米国へ渡る(正確な年は不明)
→2年後、来日(正確な年は不明)
→1874(明治7)年「ジャパン・ブルワリー」廃業
→1875(明治8)年「ヘクト・ブルワリー」廃業
1875(明治8)年 ヴィーガントの賃借経営で「ババリア・ブルワリー」開業
→1876(明治9)年 ヴィーガントとコープランド、「スプリング・ヴァレー・ブルワリー」を共同経営。6月16日、広告を出す。
スプリング・ヴァレー・ブルワリーという醸造所はコープランドとヴィーガントの合名による工場であった。ヴィーガントは山手68番のヘフト醸造所に雇われたこともあり、のちにコープランドの醸造所に移り、おそらくは資金面を負担したものと見られている。
→1879(明治12)年、両者は不仲となり、ヴィーガントがアメリカに帰国。夏に米国総領事裁判所に組合解散の申請
→1880(明治13)年解散
→1884(明治17)年、単独経営となったコープランドは営業不振になり、番頭のイートンとの間にも訴訟沙汰が起きて 「スプリング・ヴァレー・ブルワリー」倒産

→1885(明治18)年、トーマス・ブレーク・グラバーの支援を受け、スプリング・バレー・ブルワリーは日本人投資家に売却され、ジャパン・ブルワリーとなる
→1888(明治21)年、ジャパン・ブルワリーは明治屋と一手販売契約を締結し「麒麟ビール」の販売を開始

コープランドは、後に日本人女性と再婚、自宅のビアガーデンを経営しながら、東京の磯貝麦酒醸造所の技術指導を行う。1893年に日本を後にし、グアテマラシティで商売を始めるが上手く行かず、1902年1月には日本に戻り、横浜の石川町に居を構えるが、翌2月には没することになる。コープランド夫妻の墓は横浜外国人墓地に建てられた。
スプリング・バレー・ブルワリーの跡地は横浜市立北方小学校となっている。ジャパン・ブルワリー社の後身である麒麟麦酒社の横浜工場、横浜支社では、コープランドの命日である2月11日と6月、墓前で、最新のビールを供えて、墓前祭が行われているそうである。

とりあえずディレクトリ関係をざっと見てみると
・1861-1874 記述なし
・1875 Bluff Directoryに以下の記述
Yamate#68 Hegt's Brewery
     F.Harryman , C.Priebee , Captain Purvis, R.N.,
Yamate#122 Spring Valley Brewery
Yamate#123 W.Copeland

Yamate#68の項には
N.J.B.NorrdHock Hegt(Absent)
Eyton, J.L.O
Harryman.F
Priebee.C
Thomsen.C
とある。

・1876 Yamate#68にWiegandの名前 "Ue-Gando"の名前
・1877 Yamate#123にWiegandの名前
・1878 Yamate#122 Spring Valley Beer Gardens
Yamate#123 Spring Valley Brewery
W.Copeland
E.Wiegand
C.A.Ronwick
J.L.O.Eyton
・1879 Yamate#123 Spring Valley Brewery
W.Copeland
E.Wiegand
・1880 Yamate#122 E.Wiegand
Yamate#123 W.Copeland
尚、1879年、1880年にはLadies Directory に、Yamate#122 Mrs.Wiegandの記述がある。
相方のコープランドには日本人妻がいたが、ヴィーガントは妻を伴って来日したのか、日本人妻なのかどうかも不明である。

Jeffrey W. Alexanderの著書「Brewed in Japan: The Evolution of the Japanese Beer Industry」でも、Wiegandの情報が少ない事に言及している。 J.D.Eyton がコープランドに宛てた手紙の末尾に「Many thanks for information about Wiegand」との記述があるが、消息はこの文章からは当然読み取れない。

22:00 | histoire | - | - | |
2018.06.04 Monday

マイクロフィルムは断念

ここ最近不調だったが、やはり6月に入り回転性の目眩がひどくなり、朝起き上がるのに勇気がいる。まるで船酔いしているようだ。駅のホームでは走る電車に吸い込まれそうになる。PC画面のスクロールも含め、動く物を見ると目が回るので見ないようにしている。
週明けに薬をもらえたので、そのうち真っ直ぐに歩けるようになる…はず。
でも、暫くのあいだマイクロフィルムの閲覧は難しそう。ただ、よくよく調べてみると戦前の旅券下附記録は事前に申請しておけば、原本を外交史料館に取り寄せる事も可能との事ではないか。知らなかった。時間と手間はかかるけど、紙の方が一覧性が高いし、必要なページを印刷する時だけマイクロフィルムを使えばいいのだ。なぜもっと早くこの事に気付かなかったのだろうか…。

14:00 | histoire | - | - | |
2018.04.27 Friday

外務省記録2

先日に続き、今回は2日連続で外交史料館へ。
昨日は受付の人に顔を覚えられていた。
それはともかく、懸案の1つだった吉田忠七氏のデータは昨日、いとも簡単に見つけることができた。
もう一つの懸案事項は、マイクロフィルムを計50巻、それぞれ1,100コマずつあるとして、ざっと55,000コマ調べることになりそうだ。
時間を見つけて小まめに通うしかない。
目眩の薬を多めにもらいに行かなければ。


史料館の近所にある MAISON LANDEMAINE のパッションティーが美味しい。
スタバのより渋みが少ない。
クロワッサンの種類も多くて楽しい。
広い店内はWIFIも使える。客に日本人が少ない。聞こえてくるのは英語ばかり。
3日とも立ち寄ってしまった。当分こっちにも通うことにしよう(笑)
MaisonLandemaineのフレーバーティ

18:00 | histoire | - | - | |
2018.04.23 Monday

外務省記録1

 1918(大正7)年2月、今から100年前に日本からサンフランシスコに渡った人物の記録を探すため、まずは旅券発給記録を探すべく外交史料館へ。
 旅券発給記録はマイクロフィルムに収められており、四半期ごとの都道府県ごとに分類されている。つまり、旅券取得年月と取得場所が特定できなければ、膨大なデータを探す範囲が絞り込めない。旅券は本籍地で取るケースが多いものの、当時はどの県からも取ることが可能であった。そのため、旅立つ直前に本籍地ではなく、出港地のある横浜や神戸、長崎で旅券を取得しているケースもある。さらに、明治時代初期は渡航後に渡航先で旅券を取得するという離れ業すら可能であったため、日本の外務省には下付記録が残っていない事もある。
 これまでも、大正時代にシアトルやハワイに渡航した人の記録を何時間もかけて探したものの、1件も見つからなかったことがあったので、今回も期待はしていなかった。
 マイクロフィルムに記録されているデータは手書きで、都道府県によっては字が分かりづらくて読めない。コマ番号をテンキーから入力すればダイレクトに当該都道府県のページに飛べるが、テンキーのボタンが古く、押されたまま元に戻らないため暴走したりして、また一から探し直し、なんてこともあった。また、都道府県が絞り込めない場合、1リールあたり千数百ページの記録を何リールも自動再生にして、左から右に流れていくデータをひたすらチェックすることになる。動体視力が鍛えられそうだが、実際には眩暈がして酔ってしまう。

 ところが、今回は2時間ほどの調査であっさり発見できた!アルファベット表記しか分からなかった氏名の漢字表記だけでなく、本籍地、戸籍上の生年月日、渡航目的まで判明した。横浜港を発ち、1918(大正7)年2月にサンフランシスコに到着したことは船の乗船名簿(全て英語表記)に記録されていたが、旅券は大正5年12月に本籍地の鹿児島で下付されていたことが分かった。渡航は「再ビ」と書いてあったので、そのうちに1回目の渡航記録も探し当てられれば完璧である。
 おまけに、明治から昭和にかけて重要人物が多く宿泊したことで知られる、神戸・西村旅館の主だった西村貫一氏の記録にも偶然出くわした。同時期、宿屋業視察のため浦塩斯徳(ウラジオストク)へ向かっていた。

 海外移民がさかんだった時代の記録は、旅券下付記録以外にも、現地の住所録、日系人コミュニティの新聞などがある。ところが、その前の明治初期の渡航記録はやはり難しい。1872(明治5)年リヨンに公費留学し、1874(明治7)年にニール号沈没事故の犠牲になった(とされる)吉田忠七の記録も探したいところだが、果たして記録が存在するのかどうか。
 また後日マイクロフィルムを回しに行くのは良いのだけど、とにかく目が回って酔うのをどうにかしたい。リールごとに再生と逆再生を交互に行えば少しはましになるのだろうか。もしくは事前にアデホスコーワとメリスロンを飲んで行くべきか。テンキーを何千回も押すのも疲れるし。

20:00 | histoire | - | - | |
2018.04.10 Tuesday

サダキチ・ハルトマンの記事

今日の日経新聞朝刊に、以前書いたサダキチ・ハルトマンに関する記事が出ているではないか。
新しい評伝が出ているらしい。これはびっくり。

本のタイトルは「演技する道化 サダキチ・ハートマン伝:東と西の精神誌 (シリーズ・人と文化の探究)」 著者は名古屋大学名誉教授の田野勲氏。
"サダキチの存在が無視され、忘れられていったのは、人の恩をあだで返し、無軌道な人生を送った報いだろう。それでも、私は彼の業績は正しく評価されなくてはならないと考えている。"
と記事に書かれている。 日本が西洋文化に与えた影響を考えるうえで、サダキチはキーマンとなる存在だったと述べ、「研究者にとって専門外のことにも触れる怖さもあるが、恥をかいてでも彼の存在を日本人に知らせたいという思いで世に出した評伝」との事だ。

23:55 | histoire | - | - | |
2018.01.30 Tuesday

144年前の謎

昨年末に急逝された方々のご遺族の方たちから、それぞれ忌明けを告げられた。ああ、本当にもう会えないのだなあと認識。とくに逆縁には心が痛む。
太政官布告としての服忌令が公布されて144年。時代とともに服喪儀礼が簡略化、短縮化しているのは果たしてご遺族にとって良いことなのか、どうなのか。

その服忌令の公布は明治7年。悲劇のニール号遭難事故と同じ年だ。遭難したとされる日本人は吉田忠七ただ一人。だが、気になる記事も発見。こちらもよく検証した方が良さそうだ。

この事故、いろいろと気になるが、情報がとても少ない。
例えば、遭難したとされるA.Bovenschen氏はロンドンにて船を予約、1874年2月1日、シンド号(Sindh)でマルセイユを発ち、上海へ向かっていた(注1)。
シンド号はフランスのメッサジュリ・マリティム社(The Messageries Maritimes)の蒸気船で、マルセイユ、イエメンのアデン(Aden)、スリランカのゴール(Galle)、シンガポール、バタビア、サイゴン、香港、上海、横浜航路を就航していた。
1874年1月26日付 The London And China Telegraph によると、乗客として、上海行きがBovenschen氏ほか4名、香港行き1名、サイゴンへ2名、バタビア3名、シンガポール4名、ゴール1名の名前がある。
さらに同年2月11日付の記事からは、横浜行きの乗客として Mr.Lawrence の名も追加されている。
シンド号は2月25日にゴールを出て、3月3日にシンガポールに到着。その後の状況は記載されておらず分からない。この便が偶々シンガポール止まりだったのだろうか。

一方、悲劇のニール号は同年3月13日に香港を出港している。シンド号にそのまま乗っていれば上海へも横浜へも行けたはずなのに、なぜわざわざ香港で下船してニール号に乗り換えたのであろうか。 シンド号はマルセイユ〜横浜間を50日間余りで結んでいるので、順調に横浜に向かっていたとすれば3月20日頃には横浜に到着できていたはずである。そのため、3月21日横浜到着予定であったニール号よりも到着が遅いからニール号に乗り換えたという推測は成り立たない。

1874年4月11日付ジャパン・ウィークリー・メールは、Bovenschen氏は行き先を変更して遭難したとあり、Mr.Lawrence.(イギリス人)も遭難者として併記されている。
遭難者リストの中には、シンド号でBovenschen氏と同じ船で上海に向かっていた4名の名前はなく(※要調査 ここが大事)、Lawrence氏と Bovenschen氏だけがシンド号からニール号に乗り換えている可能性がある。
つまり、シンド号が故障などの理由で乗客を全員ニール号に移したとも考えにくい。もちろん、紙面の都合などで他の乗船者名を省略した可能性もなくはないが。
同年同月のシンド号とニール号の大きな差異と言えば、ニール号にはウィーン万博に出品された国宝や美術品が満載されていた点である。
(注1)The London And China Telegraph 1874.1.26、1874.2.2、1874.2.11、1874.2.23

23:55 | histoire | - | - | |
2015.11.20 Friday

上山草人とサダキチ・ハルトマン

以前書いたサダキチ・ハルトマンの記事 http://blog.harp.tv/?eid=1155978 の続き。

太田三郎氏によるサダキチ・ハルトマンの評伝には、 "俳優の上山草人(1884.1.30-1954.7.28)はサダキチの手引きでハリウッドに来た" という記述がある。サダキチと上山草人を結ぶものとしては、映画「バグダットの盗賊」(The Thief of Bagdad, 1924 film) が思い浮かぶが、実際には彼らにどのような接点があったのだろうか。

上山草人は「素顔のハリウッド」という著作を残している。その中に
「『バグダッドの盗賊』の蒙古王子に出演するまで ―私は斯くして撮影所に立つた―」
という項がある。
本文によると、上山草人の渡米の目的は主に活動寫眞にあり、内省的には別天地に来て前半生にはっきりと線を引き、次の行程に進む前の静思と解脱が必要だったためである、と書かれている。

ある日、彼はハリウッドにあるダグラス・フェアバンクス (Douglas Fairbanks;1883.5.23-1939.12.12) の 映画会社で東洋風の一大お伽噺を撮影するので、東洋系の俳優を広く探しているという情報を耳にした。ハリウッドの東洋衣装株式會社の店にて、キネマ旬報の田村幸彦氏が聞いてきた話を草人に伝えたのである。
草人は腹をくくり、俳優雇入所に乗り込んで行く。やがてダグラスに呼ばれ、お互いに睨み合った二人は近寄り握手をした。ダグラスは「まことにこの上もないよいタイプだ。ハルトマンが悠然と構えるから君はキビキビやってくれ給え」と草人に言った。

草人とサダキチの最初の接点は、おそらくダグラスのこの言葉であろう。

草人がハリウッドに出向いた時に最初に演じたのは蒙古王子ではなく、出番の少ない仙人の役だった。
この時点で、蒙古王子の役はサダキチに決まっていたからである。チャップリンからサダキチを紹介されたダグラスは、サダキチの特異な風貌にすっかり惚れ込んでしまい、週給250ドルと毎週ウイスキーを1ダースずつ届ける条件でサダキチとの契約を結んでいたのだ。

草人はサダキチのことをこう述べている。
「彼の名はサダキチ・ハートマン。独逸人を父とし、日本人の母を持つ、45〜46歳くらいの人物だ。日本語は一語も話さず永くここに住む変わり者の詩人だ。後で分かったことだが、実はこの時すでにサダキチがチャップリンの親友たちの推薦で悪王の役に決まっていたのだ。風貌や酒癖、やや呂律が回らないところ、不思議と人気があるところ…」。
また、草人はサダキチのことを「舶来紅蓮洞」ともあだな付けしている。おそらく坂本紅蓮洞(1866.9-1925.12.16)の舶来バージョンという意味であろう。坂本紅蓮洞とは明治大正期の文学者で、お酒と放浪生活で困窮のうちに亡くなった人物の名である。

ある日、草人のもとへ日本人俳優で端役に出ていたトーゴー・山本が駆け込んで来た。
「ハルトマンが辞めさせられた。酒浸りになるし、雲隠れはするし、衣裳が重いから嫌だとゴネ出すし、ダグラスが持て余して…」

それを聞いた草人の行動は素早かった。
何と、草人の妻・浦路をダグラスに会いに行かせたのである。

浦路「草人に悪王子のテストをやっていただけませんでしょうか」

ダグラス「今回は大映画なので多くの出演者がテスト中です」

浦路「敵役にぜひ草人を使って下さい」

ダグラス「だがあなたのご主人の目は私と同じで、親切そうで敵役には向かないのでは」

浦路「草人は役者ですから思い入れひとつでどんな悪でも表現する目に変化します。試写したらあなたはそれを見出すでしょう」

ここで浦路が丁寧に頭を下げると、ダグラスは笑顔で「多分見出すでしょう」と言いつつ、日課のテニスに向かった。

蒙古王子は、ダグラス自ら扮するバグダッドの盗賊に敵対する悪役。蒙古王子が憎々しければ憎々しいほど映画が盛り上がる。
草人はオーディションの場で、かつて新劇で鍛え抜いた身体表現、歌舞伎の心得を存分に発揮、ダグラスを思わず「ナイス・フィーリング」と唸らせた。東洋人特有の「思い入れ」の技巧の凄みがダグラスの心を動かしたのだと草人は観察していた。かくして、草人は蒙古王子の役を獲得したのである。

「バグダッドの盗賊」は1924(大正13)年7月10日、ハリウッドのエジプト劇場で封切りとなった。日本人俳優がこれだけの大作に大役で出演したのは早川雪州以来のことであった。

サダキチの一件について、草人はこう締めくくる。「元来俳優として訓練のない人物を、タイプが良いからと言って茶目っ気たっぷりに200万ドル以上も投ずるような大事業の大黒柱に引っ張り出したところに無理がある。貧乏詩人が急に高給を懐にしたので、酒を買い込み、似たり寄ったりのデカダンスたちが押しかけてきて毎晩飲み明かすのだから、サダキチの楽屋入りは毎日正午ごろになり、それもトロンゲンとした顔つきでやって来る。その上、いざ本格的に演じさせてみるとパッとしない。生半可な知識があるばっかりに監督の言うことに盾突く。それやこれやで會社も大英断をやったのだろう。」

…以上を総合してみると、上山草人が元々サダキチと知人だったというわけでもなく、また、サダキチが降板したから草人がハリウッドに来たわけでもないようだ。冒頭で紹介した太田三郎氏の一文は何かの比喩だったのであろうか。謎である。
それにしても、上山草人のサダキチ評はとても辛辣である。己の俳優としての実績と実力、自信に裏打ちされたコメントであるだけに、これはもう平伏すより他なさそうである。


トロンゲンってどういう意味なんだろう。

2015.08.01 Saturday

サダキチ・ハルトマン

アルチュニアンのTp協奏曲の、東洋的な哀愁漂う旋律を聴きながら、ふと思い出したのがサダキチ・ハルトマンの事。

サダキチ・ハルトマン(Carl Sadakichi Hartmann, 1867.11.8-1944.11.22)は、アメリカの美術家、詩人。30冊以上の著作を残している。

1867(慶応2)年、長崎にて日本人の母オサダ、ドイツ(プロイセン)人の父オスカー・ハルトマンの次男として出生。2歳上の兄タルー(秀太郎?)がいるが、アメリカで商いをしていた事以外の詳細は分かっていない。父のハルトマン氏は幕末史に詳しい方であれば誰もが知る人物であろう。

サダキチが生まれて間もなく母が亡くなり、1868年ハンブルグへ、1882年フィラデルフィアへ、1890年〜1910年代ニューヨーク・グリニッジヴィレッジにてボヘミアン芸術家の王者として著述および奇行、自由恋愛生活を送る。1920年〜40年代はハリウッドで活躍、「バグダッドの盗賊」(1924)で宮廷の魔法使いの役を演じた。1944年、父母の国と交戦中のアメリカ南部フロリダにて死去。

Wikipediaに「バグダッドの盗賊」で魔法使いに扮したサダキチの姿の写真があり、おそらく彼の写真の中では最もよく知られたものの一つではないかと思われる。
(この写真が、上記Tp協奏曲の練習中に思い浮かんだ次第である。)

サダキチ・ハルトマンに関する日本語で書かれた評伝はおそらくこの1冊だけである。
叛逆の芸術家
叛逆の芸術家 世界のボヘミアン=サダキチの生涯 太田三郎 東京美術

この評伝によると、サダキチが扮した魔法使いはガラスと金属で作られた髪飾りを被っていなければならない。これが重さ7kgもあり、サダキチにはこれが耐えられない。その上、撮影が始まるまで30分間ほどはこの姿のままで照明やカメラの位置決めが終わるのをじっと待ち、ようやくリハーサル、本番へと続くわけで、サダキチは髪飾りの重みから来る頭痛に耐えきれなくなってきた。やがて撮影も半ばに差し掛かった時についにやめると言い出した。ここでサダキチにやめられてしまうと、魔法使いが登場する場面を全て撮り直さなければならなくなるので、時間と費用の関係で大きな損害が発生してしまう。やむを得ず監督のダグラス・フェアバンクスはサダキチの給料をひきあげ、サダキチに似た人物に本番が始まるまでに代役としてポーズを取らせることにした。これがハリウッドでスタンド・イン(映画で本番の撮影が始まるまで俳優の身代わりをする役)が使われた最初の例だという。

これでサダキチも文句のつけようがなく、撮影は無事続けられた…が!サダキチはウイスキーを持ってサンフランシスコのチャイナタウンに逃げてしまった。この騒ぎでフェアバンクスは結果として25万ドルの損害を受けてしまった。出来上がった映画ではサダキチが独特の風貌で異彩を放っている。フェアバンクスの苦々しい表情。

サダキチが逃げ出した理由は持病が悪化したからだと称しているものの、実は映画の通俗性に嫌気がさしたのだとも言われている。映画撮影のようなメカニズムの中で働くことは本来サダキチには合わない、誰もかれもが映画に関係したがり、そこから得られる収入も大きいが、それを平然と捨てて行ったサダキチを賞賛する識者も当時はいたということだ。

2回結婚し13人の子を得た。最初の妻ベティは「サダキチはわがままでなげやりで、4分の3が天才で4分の1が悪魔なのです。でも私はサダキチの全てが好きでした」と語っている。サダキチは死ぬ間際まで詩を書いているが、どの詩にも悲哀が漂っており、亡き母への思慕の深さが痛いほど感じられる。

==
アルチュニアンのTp協奏曲は、作曲者の少年時代からの友人であり憧れでもあったトランペット奏者に書いたものであるが、その奏者は曲の完成を待たずに兵役で亡くなってしまう。作曲者のそんな悲しみも曲の中に込められているのかもしれない。

2008.09.28 Sunday

KONSEKI ?

konseki??
Quel caractéristique monument!
Ça me rappelle "Roche d'essai d'épée" qui apparaît en "Trois Royaumes de Chine"...

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