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2018.05.18 Friday

遠い日本にいた先祖たちを探して

海外在住の日系人が、日本の役所に両親や祖父母の除籍謄本を請求する手続きに関する覚え書き。

日本人の場合は、[1]〜[5]があれば自分や直系親族の戸籍を請求できる。
[1]申請書(役所のWebサイトからダウンロード) ※消せるボールペンや鉛筆で書くと再請求となる
[2]定額小為替(750円×通数分)
[3]返信用封筒(住所氏名を書いて切手を貼ったもの)
[4]本人確認書類の写し(運転免許証など)
[5]申請者本人と必要な人の関係が分かる書類(→自分の戸籍謄本。但し、必要な人が入った戸籍の筆頭者と同じ役所に請求者の戸籍謄本があれば省略できるかも。)

日系人の方が父母や祖父母の戸籍を請求するには
[6]請求者の出生証明書の写し
[7][6]の日本語訳文と和訳した人の氏名、住所、サイン
[8]請求者の身分証明書の写し(パスポートなど)
[9]誰かに代行してもらう場合は、請求者「自筆の」委任状とその和訳、和訳者の氏名、住所、サイン
[10][9]の場合、代理人の身分証明書

海外から請求しても発送してくれるらしい。
また、海外の人は印鑑を持っていないが、その場合は「印」の欄にサインをすればOKとの事。
[1]の申請書も、英語で書いても良いが日本語訳も必ず必要。役所側は原則として日本語の書類しか受け付けられないそうだ。

日系人で日本語が分からない方が請求する場合、請求者の自筆の委任状があれば、たとえば日本在住の日本人が代理で請求することも可能。
代理人は必ずしも親族でなくても良いらしい。
海外の人が日本の郵便小為替 a postal money order や切手を準備したりする手間を考えると、日本にいる人が代行した方がラクな気もする。
しかし面倒だからと言って、偽りその他の不正手段で交付を受けると、30万円以下の罰金に処せられる。

但し、無事に請求できたとしても、東京都北区や中央区のように「戸籍法により除籍後の保存期間80年で廃棄」とされていた時代に廃棄処分されていたり、港区のように空襲で焼けてしまい残っていないケースもある。
今のところ、福岡市、西条市、広島市、千代田区は昔のものも残されているようだ。神戸市中央区は大正4年以降の分は残されており、電子化されているのは大正9年分以降と数年前に聞いたことがある。

両親、祖父母、さらにそれより前…と遡って戸籍を取得したい場合、先祖代々同じ市区町村に住んでいれば一度に取れるが、そうでなければ、それぞれの役所に請求しなければならない。
父母の本籍がA市、祖父母がB市、曾祖父母がC市だったりすると、A市の戸籍を取ったあと、それをコピーしてB市に請求して交付を受け、さらにそれもコピーしてAB両市の分を添付してC市に請求することになる。
郵送の往復で時間もかかるし、得てしてB市の分が廃棄処分されていて先に進めなくなったりしがちで、なかなか根気のいる作業である。

その辺も含め、英語が不得意な人が下手な英語で手続き方法を説明するとしたら以下のような感じになるのかと…
In Japan there are official documents called "Joseki Tohon" , including ancestral data.
So you may be able to obtain data on your ancestors who were in Japan.
You have to mail some paper letter such as a letter of attorney, your birth certificate, official document showing the relationship between you and your parents, official document showing the relationship between your parents and grandparents.

A domicile does not always correspond to an address or a place of birth.
In addition, since family transcripts are managed by city, we may need to do the same work again in another city.
Also, old documents more than 80 years ago may have been discarded already.
I will send you the form and the entry form before filling in.(→申請書の記入例を添付する場合)
The city office accepts only documents in Japanese written in handwriting.

戸籍請求理由は…やはり "For visiting the graves of our ancestors" くらいしか思いつかない。"先祖供養"で役所に断られたことはないけれど、自治体によってはNGかも。

日本語が分からない日系人の場合、先祖の日本名や本籍地などの日本語表記(漢字)が分からない場合も多い。
その場合、まずはそこから調査しないと申請書が書けない。日本を発った時期がある程度絞り込めていれば、外交史料館の旅券下付記録のマイクロフィルムで探せば判明するけど、東京近郊に住んでいなければ上京するしかない。
旅券下付記録から無事に日本語データが判明した場合は、
I found a passport issuance record for 先祖A and 先祖B at the Diplomatic Archives of the Ministry of Foreign Affairs of Japan.
It is a record of 西暦年, and their kanji name, date of birth, legal domicile, and purpose of traveling are written.
…とか書いたら通じるかも。多分 笑。

1885(明治18)年から1894(明治27)年にかけて全国から約2万9千人が布哇に移住した官約移民や、1869(明治2)年の第1回目を皮切りとするカリフォルニア州への移民など、後の日米開戦により数奇な運命を辿りつつも子や孫を守り、懸命に生きて、やがてその子や孫が偉大な先祖に思いを馳せるような年代になってきているという事例に複数関わったため、今回の覚え書きに至った次第。
(但し、重ねて書くが、上記の英文はかなり怪しいのでご理解のほどを。)

22:22 | histoire | - | - | |
2018.04.27 Friday

外務省記録2

先日に続き、今回は2日連続で外交史料館へ。
昨日は受付の人に顔を覚えられていた。
それはともかく、懸案の1つだった吉田忠七氏のデータは昨日、いとも簡単に見つけることができた。
もう一つの懸案事項は、マイクロフィルムを計50巻、それぞれ1,100コマずつあるとして、ざっと55,000コマ調べることになりそうだ。
時間を見つけて小まめに通うしかない。
目眩の薬を多めにもらいに行かなければ。


史料館の近所にある MAISON LANDEMAINE のパッションティーが美味しい。
スタバのより渋みが少ない。
クロワッサンの種類も多くて楽しい。
広い店内はWIFIも使える。客に日本人が少ない。聞こえてくるのは英語ばかり。
3日とも立ち寄ってしまった。当分こっちにも通うことにしよう(笑)
MaisonLandemaineのフレーバーティ

18:00 | histoire | - | - | |
2018.04.23 Monday

外務省記録1

 1918(大正7)年2月、今から100年前に日本からサンフランシスコに渡った人物の記録を探すため、まずは旅券発給記録を探すべく外交史料館へ。
 旅券発給記録はマイクロフィルムに収められており、四半期ごとの都道府県ごとに分類されている。つまり、旅券取得年月と取得場所が特定できなければ、膨大なデータを探す範囲が絞り込めない。旅券は本籍地で取るケースが多いものの、当時はどの県からも取ることが可能であった。そのため、旅立つ直前に本籍地ではなく、出港地のある横浜や神戸、長崎で旅券を取得しているケースもある。さらに、明治時代初期は渡航後に渡航先で旅券を取得するという離れ業すら可能であったため、日本の外務省には下付記録が残っていない事もある。
 これまでも、大正時代にシアトルやハワイに渡航した人の記録を何時間もかけて探したものの、1件も見つからなかったことがあったので、今回も期待はしていなかった。
 マイクロフィルムに記録されているデータは手書きで、都道府県によっては字が分かりづらくて読めない。コマ番号をテンキーから入力すればダイレクトに当該都道府県のページに飛べるが、テンキーのボタンが古く、押されたまま元に戻らないため暴走したりして、また一から探し直し、なんてこともあった。また、都道府県が絞り込めない場合、1リールあたり千数百ページの記録を何リールも自動再生にして、左から右に流れていくデータをひたすらチェックすることになる。動体視力が鍛えられそうだが、実際には眩暈がして酔ってしまう。

 ところが、今回は2時間ほどの調査であっさり発見できた!アルファベット表記しか分からなかった氏名の漢字表記だけでなく、本籍地、戸籍上の生年月日、渡航目的まで判明した。横浜港を発ち、1918(大正7)年2月にサンフランシスコに到着したことは船の乗船名簿(全て英語表記)に記録されていたが、旅券は大正5年12月に本籍地の鹿児島で下付されていたことが分かった。渡航は「再ビ」と書いてあったので、そのうちに1回目の渡航記録も探し当てられれば完璧である。
 おまけに、明治から昭和にかけて重要人物が多く宿泊したことで知られる、神戸・西村旅館の主だった西村貫一氏の記録にも偶然出くわした。同時期、宿屋業視察のため浦塩斯徳(ウラジオストク)へ向かっていた。

 海外移民がさかんだった時代の記録は、旅券下付記録以外にも、現地の住所録、日系人コミュニティの新聞などがある。ところが、その前の明治初期の渡航記録はやはり難しい。1872(明治5)年リヨンに公費留学し、1874(明治7)年にニール号沈没事故の犠牲になった(とされる)吉田忠七の記録も探したいところだが、果たして記録が存在するのかどうか。
 また後日マイクロフィルムを回しに行くのは良いのだけど、とにかく目が回って酔うのをどうにかしたい。リールごとに再生と逆再生を交互に行えば少しはましになるのだろうか。もしくは事前にアデホスコーワとメリスロンを飲んで行くべきか。テンキーを何千回も押すのも疲れるし。

20:00 | histoire | - | - | |
2018.04.10 Tuesday

サダキチ・ハルトマンの記事

今日の日経新聞朝刊に、以前書いたサダキチ・ハルトマンに関する記事が出ているではないか。
新しい評伝が出ているらしい。これはびっくり。

本のタイトルは「演技する道化 サダキチ・ハートマン伝:東と西の精神誌 (シリーズ・人と文化の探究)」 著者は名古屋大学名誉教授の田野勲氏。
"サダキチの存在が無視され、忘れられていったのは、人の恩をあだで返し、無軌道な人生を送った報いだろう。それでも、私は彼の業績は正しく評価されなくてはならないと考えている。"
と記事に書かれている。 日本が西洋文化に与えた影響を考えるうえで、サダキチはキーマンとなる存在だったと述べ、「研究者にとって専門外のことにも触れる怖さもあるが、恥をかいてでも彼の存在を日本人に知らせたいという思いで世に出した評伝」との事だ。

23:55 | histoire | - | - | |
2018.01.30 Tuesday

144年前の謎

昨年末に急逝された方々のご遺族の方たちから、それぞれ忌明けを告げられた。ああ、本当にもう会えないのだなあと認識。とくに逆縁には心が痛む。
太政官布告としての服忌令が公布されて144年。時代とともに服喪儀礼が簡略化、短縮化しているのは果たしてご遺族にとって良いことなのか、どうなのか。

その服忌令の公布は明治7年。悲劇のニール号遭難事故と同じ年だ。遭難したとされる日本人は吉田忠七ただ一人。だが、気になる記事も発見。こちらもよく検証した方が良さそうだ。

この事故、いろいろと気になるが、情報がとても少ない。
例えば、遭難したとされるA.Bovenschen氏はロンドンにて船を予約、1874年2月1日、シンド号(Sindh)でマルセイユを発ち、上海へ向かっていた(注1)。
シンド号はフランスのメッサジュリ・マリティム社(The Messageries Maritimes)の蒸気船で、マルセイユ、イエメンのアデン(Aden)、スリランカのゴール(Galle)、シンガポール、バタビア、サイゴン、香港、上海、横浜航路を就航していた。
1874年1月26日付 The London And China Telegraph によると、乗客として、上海行きがBovenschen氏ほか4名、香港行き1名、サイゴンへ2名、バタビア3名、シンガポール4名、ゴール1名の名前がある。
さらに同年2月11日付の記事からは、横浜行きの乗客として Mr.Lawrence の名も追加されている。
シンド号は2月25日にゴールを出て、3月3日にシンガポールに到着。その後の状況は記載されておらず分からない。この便が偶々シンガポール止まりだったのだろうか。

一方、悲劇のニール号は同年3月13日に香港を出港している。シンド号にそのまま乗っていれば上海へも横浜へも行けたはずなのに、なぜわざわざ香港で下船してニール号に乗り換えたのであろうか。 シンド号はマルセイユ〜横浜間を50日間余りで結んでいるので、順調に横浜に向かっていたとすれば3月20日頃には横浜に到着できていたはずである。そのため、3月21日横浜到着予定であったニール号よりも到着が遅いからニール号に乗り換えたという推測は成り立たない。

1874年4月11日付ジャパン・ウィークリー・メールは、Bovenschen氏は行き先を変更して遭難したとあり、Mr.Lawrence.(イギリス人)も遭難者として併記されている。
遭難者リストの中には、シンド号でBovenschen氏と同じ船で上海に向かっていた4名の名前はなく(※要調査 ここが大事)、Lawrence氏と Bovenschen氏だけがシンド号からニール号に乗り換えている可能性がある。
つまり、シンド号が故障などの理由で乗客を全員ニール号に移したとも考えにくい。もちろん、紙面の都合などで他の乗船者名を省略した可能性もなくはないが。
同年同月のシンド号とニール号の大きな差異と言えば、ニール号にはウィーン万博に出品された国宝や美術品が満載されていた点である。
(注1)The London And China Telegraph 1874.1.26、1874.2.2、1874.2.11、1874.2.23

23:55 | histoire | - | - | |
2015.11.20 Friday

上山草人とサダキチ・ハルトマン

以前書いたサダキチ・ハルトマンの記事 http://blog.harp.tv/?eid=1155978 の続き。

太田三郎氏によるサダキチ・ハルトマンの評伝には、 "俳優の上山草人(1884.1.30-1954.7.28)はサダキチの手引きでハリウッドに来た" という記述がある。サダキチと上山草人を結ぶものとしては、映画「バグダットの盗賊」(The Thief of Bagdad, 1924 film) が思い浮かぶが、実際には彼らにどのような接点があったのだろうか。

上山草人は「素顔のハリウッド」という著作を残している。その中に
「『バグダッドの盗賊』の蒙古王子に出演するまで ―私は斯くして撮影所に立つた―」
という項がある。
本文によると、上山草人の渡米の目的は主に活動寫眞にあり、内省的には別天地に来て前半生にはっきりと線を引き、次の行程に進む前の静思と解脱が必要だったためである、と書かれている。

ある日、彼はハリウッドにあるダグラス・フェアバンクス (Douglas Fairbanks;1883.5.23-1939.12.12) の 映画会社で東洋風の一大お伽噺を撮影するので、東洋系の俳優を広く探しているという情報を耳にした。ハリウッドの東洋衣装株式會社の店にて、キネマ旬報の田村幸彦氏が聞いてきた話を草人に伝えたのである。
草人は腹をくくり、俳優雇入所に乗り込んで行く。やがてダグラスに呼ばれ、お互いに睨み合った二人は近寄り握手をした。ダグラスは「まことにこの上もないよいタイプだ。ハルトマンが悠然と構えるから君はキビキビやってくれ給え」と草人に言った。

草人とサダキチの最初の接点は、おそらくダグラスのこの言葉であろう。

草人がハリウッドに出向いた時に最初に演じたのは蒙古王子ではなく、出番の少ない仙人の役だった。
この時点で、蒙古王子の役はサダキチに決まっていたからである。チャップリンからサダキチを紹介されたダグラスは、サダキチの特異な風貌にすっかり惚れ込んでしまい、週給250ドルと毎週ウイスキーを1ダースずつ届ける条件でサダキチとの契約を結んでいたのだ。

草人はサダキチのことをこう述べている。
「彼の名はサダキチ・ハートマン。独逸人を父とし、日本人の母を持つ、45〜46歳くらいの人物だ。日本語は一語も話さず永くここに住む変わり者の詩人だ。後で分かったことだが、実はこの時すでにサダキチがチャップリンの親友たちの推薦で悪王の役に決まっていたのだ。風貌や酒癖、やや呂律が回らないところ、不思議と人気があるところ…」。
また、草人はサダキチのことを「舶来紅蓮洞」ともあだな付けしている。おそらく坂本紅蓮洞(1866.9-1925.12.16)の舶来バージョンという意味であろう。坂本紅蓮洞とは明治大正期の文学者で、お酒と放浪生活で困窮のうちに亡くなった人物の名である。

ある日、草人のもとへ日本人俳優で端役に出ていたトーゴー・山本が駆け込んで来た。
「ハルトマンが辞めさせられた。酒浸りになるし、雲隠れはするし、衣裳が重いから嫌だとゴネ出すし、ダグラスが持て余して…」

それを聞いた草人の行動は素早かった。
何と、草人の妻・浦路をダグラスに会いに行かせたのである。

浦路「草人に悪王子のテストをやっていただけませんでしょうか」

ダグラス「今回は大映画なので多くの出演者がテスト中です」

浦路「敵役にぜひ草人を使って下さい」

ダグラス「だがあなたのご主人の目は私と同じで、親切そうで敵役には向かないのでは」

浦路「草人は役者ですから思い入れひとつでどんな悪でも表現する目に変化します。試写したらあなたはそれを見出すでしょう」

ここで浦路が丁寧に頭を下げると、ダグラスは笑顔で「多分見出すでしょう」と言いつつ、日課のテニスに向かった。

蒙古王子は、ダグラス自ら扮するバグダッドの盗賊に敵対する悪役。蒙古王子が憎々しければ憎々しいほど映画が盛り上がる。
草人はオーディションの場で、かつて新劇で鍛え抜いた身体表現、歌舞伎の心得を存分に発揮、ダグラスを思わず「ナイス・フィーリング」と唸らせた。東洋人特有の「思い入れ」の技巧の凄みがダグラスの心を動かしたのだと草人は観察していた。かくして、草人は蒙古王子の役を獲得したのである。

「バグダッドの盗賊」は1924(大正13)年7月10日、ハリウッドのエジプト劇場で封切りとなった。日本人俳優がこれだけの大作に大役で出演したのは早川雪州以来のことであった。

サダキチの一件について、草人はこう締めくくる。「元来俳優として訓練のない人物を、タイプが良いからと言って茶目っ気たっぷりに200万ドル以上も投ずるような大事業の大黒柱に引っ張り出したところに無理がある。貧乏詩人が急に高給を懐にしたので、酒を買い込み、似たり寄ったりのデカダンスたちが押しかけてきて毎晩飲み明かすのだから、サダキチの楽屋入りは毎日正午ごろになり、それもトロンゲンとした顔つきでやって来る。その上、いざ本格的に演じさせてみるとパッとしない。生半可な知識があるばっかりに監督の言うことに盾突く。それやこれやで會社も大英断をやったのだろう。」

…以上を総合してみると、上山草人が元々サダキチと知人だったというわけでもなく、また、サダキチが降板したから草人がハリウッドに来たわけでもないようだ。冒頭で紹介した太田三郎氏の一文は何かの比喩だったのであろうか。謎である。
それにしても、上山草人のサダキチ評はとても辛辣である。己の俳優としての実績と実力、自信に裏打ちされたコメントであるだけに、これはもう平伏すより他なさそうである。


トロンゲンってどういう意味なんだろう。

2015.08.01 Saturday

サダキチ・ハルトマン

アルチュニアンのTp協奏曲の、東洋的な哀愁漂う旋律を聴きながら、ふと思い出したのがサダキチ・ハルトマンの事。

サダキチ・ハルトマン(Carl Sadakichi Hartmann, 1867.11.8-1944.11.22)は、アメリカの美術家、詩人。30冊以上の著作を残している。

1867(慶応2)年、長崎にて日本人の母オサダ、ドイツ(プロイセン)人の父オスカー・ハルトマンの次男として出生。2歳上の兄タルー(秀太郎?)がいるが、アメリカで商いをしていた事以外の詳細は分かっていない。父のハルトマン氏は幕末史に詳しい方であれば誰もが知る人物であろう。

サダキチが生まれて間もなく母が亡くなり、1868年ハンブルグへ、1882年フィラデルフィアへ、1890年〜1910年代ニューヨーク・グリニッジヴィレッジにてボヘミアン芸術家の王者として著述および奇行、自由恋愛生活を送る。1920年〜40年代はハリウッドで活躍、「バグダッドの盗賊」(1924)で宮廷の魔法使いの役を演じた。1944年、父母の国と交戦中のアメリカ南部フロリダにて死去。

Wikipediaに「バグダッドの盗賊」で魔法使いに扮したサダキチの姿の写真があり、おそらく彼の写真の中では最もよく知られたものの一つではないかと思われる。
(この写真が、上記Tp協奏曲の練習中に思い浮かんだ次第である。)

サダキチ・ハルトマンに関する日本語で書かれた評伝はおそらくこの1冊だけである。
叛逆の芸術家
叛逆の芸術家 世界のボヘミアン=サダキチの生涯 太田三郎 東京美術

この評伝によると、サダキチが扮した魔法使いはガラスと金属で作られた髪飾りを被っていなければならない。これが重さ7kgもあり、サダキチにはこれが耐えられない。その上、撮影が始まるまで30分間ほどはこの姿のままで照明やカメラの位置決めが終わるのをじっと待ち、ようやくリハーサル、本番へと続くわけで、サダキチは髪飾りの重みから来る頭痛に耐えきれなくなってきた。やがて撮影も半ばに差し掛かった時についにやめると言い出した。ここでサダキチにやめられてしまうと、魔法使いが登場する場面を全て撮り直さなければならなくなるので、時間と費用の関係で大きな損害が発生してしまう。やむを得ず監督のダグラス・フェアバンクスはサダキチの給料をひきあげ、サダキチに似た人物に本番が始まるまでに代役としてポーズを取らせることにした。これがハリウッドでスタンド・イン(映画で本番の撮影が始まるまで俳優の身代わりをする役)が使われた最初の例だという。

これでサダキチも文句のつけようがなく、撮影は無事続けられた…が!サダキチはウイスキーを持ってサンフランシスコのチャイナタウンに逃げてしまった。この騒ぎでフェアバンクスは結果として25万ドルの損害を受けてしまった。出来上がった映画ではサダキチが独特の風貌で異彩を放っている。フェアバンクスの苦々しい表情。

サダキチが逃げ出した理由は持病が悪化したからだと称しているものの、実は映画の通俗性に嫌気がさしたのだとも言われている。映画撮影のようなメカニズムの中で働くことは本来サダキチには合わない、誰もかれもが映画に関係したがり、そこから得られる収入も大きいが、それを平然と捨てて行ったサダキチを賞賛する識者も当時はいたということだ。

2回結婚し13人の子を得た。最初の妻ベティは「サダキチはわがままでなげやりで、4分の3が天才で4分の1が悪魔なのです。でも私はサダキチの全てが好きでした」と語っている。サダキチは死ぬ間際まで詩を書いているが、どの詩にも悲哀が漂っており、亡き母への思慕の深さが痛いほど感じられる。

==
アルチュニアンのTp協奏曲は、作曲者の少年時代からの友人であり憧れでもあったトランペット奏者に書いたものであるが、その奏者は曲の完成を待たずに兵役で亡くなってしまう。作曲者のそんな悲しみも曲の中に込められているのかもしれない。

2008.09.28 Sunday

KONSEKI ?

konseki??
Quel caractéristique monument!
Ça me rappelle "Roche d'essai d'épée" qui apparaît en "Trois Royaumes de Chine"...

00:00 | histoire | - | - | |
2008.08.06 Wednesday

夏の光景

あちこちで見かけた夏の光景たち。
コガネムシツユクサシオカラトンボひまわり夏の雲2ユリ夏の雲1夏の雲3ヘリ

2008.07.14 Monday

革命記念日

カサブランカ
昨夜まで蕾だったカサブランカが、今朝、一気に3輪も開花しました。折りしも、今日はフランスの革命記念日Quatorze Juillet。ユリの花(実際はアイリスという説もありますが)は、ブルボン家やルイ王家の紋章だったものの、革命後はフランス国家の印としては使われなくなってしまったことを考えると、なかなか感慨深いものがあります。
それにしても暑い!DebussyのFeux d'artificeが聴きたくなってきました。

00:00 | histoire | - | - | |

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