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2019.08.01 Thursday

151年前の手紙

 ケンブリッジ大学のアーカイブに、私の祖先が書いた手紙が1通だけ所蔵されている事を知ったのは5年以上前だった。
 神戸から香港に向けて書かれたビジネスレターで、原書は閲覧不可。マイクロフィルムに収められているという。
 写しを入手したいと願いつつ、渡英できないまま時は過ぎた。オンラインで入手できると知ったのは、ちょうど1週間前。
 アーカイブ担当者からのメールによると、資料を注文後、見積金額の連絡が届くまでに10営業日程度、その後手元に届くまで30日程度を要する旨が記載されていたが、結局、問い合わせから1週間もかからずに受領できた。
 対応が迅速かつ無駄がなく、一連の流れが鮮やか過ぎて眩しいくらいだった。

 明後日はオケ本番だというのに、練習をちょっと後回しにして、ドキドキしながら写しのTIFFファイルを開いてみた。
 画像は汚損もかすれもなく、とても鮮明だった。
 しかし……解読できない!
 手書きの筆記体なのだが、読めないところが多々ある。それもそのはず、よく見るとドイツ語の筆記体で英文を書いていたのであった。
 読めない理由は、もちろんそれだけではない。私の祖先の字が達筆?なのか雑なのかよく分からないが、クセがあって読めないのだ。ついでに取り寄せた他のビジネスパートナーたちの手紙は判読できるのだが。
 手紙の冒頭には、1868年1月4日と書かれている。つまり、神戸開港の3日後に書かれた手紙という事になる。当時は開港したばかりで、神戸港周辺には運上所と埠頭3箇所、倉庫が3棟しかなかったはず。一体、神戸のどこでこの手紙を書いたのだろうか。

 現在、米国の人とお互い夜中にメールを送り合いながら進めているプロジェクトは、結局は英国を中心に展開しつつある。本当はドイツの方で展開したかったのだが、ドイツは個人情報保護がとても厳しくて、諸々困難なのだそうだ。
 自力でできる事には限界があるけれど、協力してくれる人がいると心強い。そう言えば、以前問い合わせをしたD大学の人も快く協力してくれて、結局問題解決には至らなかったが、親身になってくれたので非常に感動した。一方、都内某R大は切り口上で、こちらの既読の文言をコピペしただけのメールが返ってきて終わった事を思い出す。
 大学によって独自のカラーがあるようだ。もちろん、担当者によるのかもしれないけど。

 151年前の手紙も、誰かに解読してもらう事になるのだろうか。Webには掲載できないので知恵袋には投稿できないし…ううむ。

2019.07.24 Wednesday

810年の歴史

 梅雨は明けないし、何をやっても壁にぶち当たった挙句、貴重な方には連絡が届かないまま亡くなられてしまうという、閉塞感に覆われた1ヵ月間だったが、今日は久々に進展があった。
 以前までは受け付けていなかった気がしたのだが、ケンブリッジ大学の図書館にあるマイクロフィルムの写しをオンラインで取り寄せる事が出来るというではないか。
 5年以上前、上記に重要なデータが収録されている事が判明した。しかし、マイクロフィルムの場合、必要な箇所がリールのどのコマにあるのか、特定が難しい。当時もメールで問い合わせたが、やはり実際に出向かなければならないという話になった。とは言え、なかなか英国にも行けないので、英国出張に立ち寄る人にお願いした事もあれば、フリーランサーの某サイト経由で英国在住の人に話をもちかけた事もあった。しかし、前者は時間と距離の都合で同大学には立ち寄れず、後者からは返信すら来なかった(そもそも何ヵ月もサイトにログインすらしていなかったようだが)。他にも英国に行く人はいたが、みんな忙しそうだったので遠慮していた。
 いつか自分で英国に行って調べようと思っていたが、今日何となくメールで問い合わせてみたら、リファレンスの方から非常にスピーディーで的確な返信が届いた。オンラインの注文サイトがあります、との事。しかも、短時間にマイクロフィルムのコマの該当箇所まで調べてくれていて、注文方法なども含め、必要な情報が簡潔なメールに全て網羅されていた。さすがケンブリッジ大学、810年の歴史!
 アーカイブのWebサイトもユーザーフレンドリーで、資料の権利関係も含めて必要な内容が整然と記載されていた。おかげですんなり注文できた。途中、操作に戸惑うことも全くなかった。某Faceb〇〇kとは大違い。

 Webサイトの内容があまりにも豊富なので、デジタルデータにも見入ってしまった。神戸居留地の写真もあり、感激。
   https://cudl.lib.cam.ac.uk/view/PH-Y-30377-C/72

 米国在住の方とも調査を進めているけれど、こちらはおそらく進展しなさそうなので、時差のため夜中にメールが届く日々もそのうち終わるだろう。しかしながら、日本国内の仕事のメールも夜中に届いたりする。日本人は働き過ぎ!?

20:00 | histoire | - | - | |
2019.04.27 Saturday

BONE MUSIC展

レントゲン写真レコード
初日の今日、さっそく見て来た。
ロシアがまだソビエト連邦だった頃、国家は音楽を含めたあらゆる文化を厳しく検閲し、統制してきた。ジャズやロックなど、西側諸国に関わる文化、時にはロシアの一部の音楽でさえも徹底的に排除された。
今、携帯やPCさえあれば、24時間いつでもどこでも世界中の音楽が聴けるような環境にいる者にとっては想像すらできない世界。
そんなソビエト時代、病院で不要になったレントゲン写真を丸く切り取り、溝を掘り音楽を刻んだレコードが秘密裏に作られていた。製作が発覚した者は容赦なく投獄されたという。
他にも、プラスチックや絵葉書のレコード、様々なソノシート、風刺ポスターに至るまで、いずれも滅多にお目にかかれないような展示が多く楽しめた。
時代背景は違うとしても、情報も統制され、物もなく不自由な環境下であっても、工夫を凝らして何が何でも音楽に触れたいという思いは、沖縄のカンカラ三線にも通じるものがあるように思う。
bonemusic展
これらは、パッと見、レコードだなんてまず分からない。レントゲン写真レコードの実際のサウンドも聴けたが、想像していたよりはるかにクリアーな音だったので驚き。


会場に向かう途中、旧ソ連について熱く語り合う2人連れの女子とすれ違った。確かに、ソビエトに興味がある人にとってはたまらない企画展であろう。
今日は10連休初日のはずだが、原宿のキャットストリートも渋谷の街も、それほど大混雑はしていなかった。外国人が多いのは相変わらずだが、日本人はむしろ、今は東京から出てしまっているのかもしれない。

16:00 | histoire | - | - | |
2019.04.02 Tuesday

三浦按針

 長崎県平戸市崎方公園内の三浦按針墓地で出土した人骨が、ミトコンドリアDNA分析でヨーロッパ人男性と断定したというニュースを見た。
 三浦按針の本名はウィリアム・アダムスといい、1600年、オランダ船リーフデ号で大分県臼杵市に漂着、徳川家康から外交顧問として重用された。日本に初めて来た英国人とされる。祖国への帰国もかなわず、1620年にこの世を去った。
 平戸市によると、1561年から1640年までに平戸で死亡した70人の外国人のうち、1590年〜1620年に死亡したのが三浦按針を含む英国人とオランダ人の計10人。DNA分析から死亡時期が一致、按針の墓である可能性がより高まった、とある。
 そもそも、墓の発掘に至るまでの経緯がどこにも書かれておらず分からないが、按針の子孫も捜されているなど、調査研究の対象になっている重要人物である事がよく分かる。按針は日本人女性との間に息子ジョゼフと娘スザンナがいたというから、現在も日本のどこかに子孫がおられる可能性もなくはない。但し、息子ジョゼフの方は生涯未婚だったそうだ。また、按針は日本に漂着する前、英国でも結婚していて2人の子がおり、妻の名前も分かっているというから、そちらの系統からも捜せるかもしれない。
 ただ、年代から計算すると、日本に子孫がおられるとしても、按針の血は多くても2048分の1程度。複数人見つかったとしても10th cousinより遠い血縁となるはず。DNA分析を以てしても按針本人が特定できない上、按針の日本人妻の事もよく分かっていないらしいので、科学的に子孫を探すのはかなり難しいだろう。
 あるDNA分析サービスのwebサイトを見ると、日本人の場合「日本人100%」という結果が出た人と、「日本95%程度、あとは中国、アジア他」といった結果が出る2パターンがほとんどのようだ。国籍が欧米でもDNAは完全に日本人という日系人は多く見かけた。なので、日本人と欧米人の比率が 1:0.000488125 という人が今後出てきたら、按針の係累である可能性もわずかながら出てくる…が、やはり、かなり少ない可能性だ。

23:58 | histoire | - | - | |
2019.03.09 Saturday

六甲山の開祖

 六甲山の開祖と言われ、日本に最初のゴルフ場を作ったイギリス人、アーサー・ヘスケス・グルーム(Arthur Hesketh Groom, 1846-1918)のお墓を訪ねた。
 グルーム氏の墓碑は、夫人のお墓と仲良く並んで、広大な青空に向かってスッと立っていた。今日はお盆でもなくお彼岸もまだ先であるが、添えられていた花はまだ瑞々しく、周囲の大多数のお墓と比較しても頻繁に訪れる人があることを示していた。
 墓誌には
明治元年自英国来朝為茶商営海外貿易四十余年齢及五十開拓六甲山送余生焉大正七年一月九日逝享年七十三歳
とあった。

 山と森林に囲まれた、207haもある広大な墓園は、植物の名前が付けられた38の墓域に分かれている。グルーム氏のお墓と私の祖先のお墓2基はそれぞれ異なる墓域のため、かなりの距離を移動する事となった。

 蛇足だが、自分の直系のお墓は"もくせい"という墓域にある。これがどういうわけか、"木星"だと先祖代々語り継がれており、文書にも立派な筆文字で"木星"と書かれている。自分が"木星"墓域に葬られていると信じている(であろう)先祖たち。太陽系の天体の名を38箇所に割り振ろうとしたら、惑星や準惑星を入れても足りなくなるため、"タイタン"とか"カロン"なんてのも使わなければならなくなるはず。なぜ誰も気づかなかったのだろう。
ちなみに、"もくせい"は通常ギンモクセイを指す呼称で、金木犀ではないらしい。
38箇所の墓域

21:30 | histoire | - | - | |
2019.02.03 Sunday

C.J.Textor

 居留地関連調査も行き詰まり気味だったところ、久々に良い資料に出くわした。
 謎が多く資料も少なかった C.J.テキストル(1816-1891)が優れた化学者であり植物学者であったこと、植物の学名にもその名があること、テキストル商会を設立する以前にも日本に来ていた事、シーボルトの少しばかり理不尽な仕打ちによって苦労していた事、商品としての日本茶を海外に初めて紹介したのは他ならぬテキストルであった事…等々。
 シーボルトの記録はもとより、オランダの史料にその名があったのは盲点だった。
 シーボルトが教えを受けていた、白内障や骨切手術で有名な外科の Cajetan van Textor(1782-1860)教授もテキストル、文豪ゲーテの妻も苗字はテキストル(C.J.Textorと近い血縁ではないそうだ)。ドイツには結構多い苗字らしい。そこを混同したのか「シーボルトの指導教授が日本にきて植物採集を行い、それが植物の名前になった」などというまことしやかな記述があるWebサイトも発見した。ドイツ人は同姓同名が非常に多いので、人物調査にも十分注意しなければ、と改めて思う。
 テキストルの名がつけられたツリフネソウ(学名:Impatiens textori)。インパチェンスの花は、実が成熟すると少し触れただけでも破裂し、種を拡散させてしまう。これにちなんで、ラテン語でインパチェンス《がまんできない》という言葉が付けられた。そこから《私に触らないで》という花言葉にもつながるという説もある。テキストルも自分の事にあまり触れられたくないのか、資料がとても少ない人物の一人である。フランクフルト出身で、ロッテルダム大学で化学と植物学を修めたあと、東インドへ向かっている。彼が設立したテキストル商会の、後期の主要人物はドイツの中でもオランダ寄りの地域出身者が多かったこととも何かつながりがあるのだろうか。

22:00 | histoire | - | - | |
2018.12.23 Sunday

お雇い外国人ポール・セーゲル

1869(明治2)年に来日した、海軍省のドイツ(プロシア)人技術者、ポール・セーゲル(Paul Seger。 Seegerとも)。日本の文献にはセイガイ、セーカ、など、いろいろな表記で書かれている人物のようだが、本当にこれら全てが同一人物を指しているのかどうかは調べきれていない。

Meiji Portraitsのサイトによると、下記の事が書かれている。
==
R. Menger の代わりに来日したセーゲルは、横浜居留地163番の Mengerのオフィスで働いた。1871年にGeorg Adolf Greeven が来日したとき、築地居留地14番に Greeven, Seger & Co.を設立した。
1872年、セーゲルは教師として日本政府との雇用契約を締結。1873年には会社を解散して、E.Knipping と彼の前のパートナーG.A.Greeven は彼の同僚となった。
セーゲルは1872年10月1日、6ヶ月間ドイツ語教師として文部省と契約、後に開成学校で力学を教えた。契約は延長され、契約が終了したのは1874年4月30日のことだった。
外国人従業員のリストには、セーカ という記載のものがある。これは P.Seger だと考えられている。この仮定に基づくと、彼は1874年9月10日から1年間、海軍省に造船技師として雇われ、鹿児島で仕事をした。
彼がその後も日本にいたという記録はない。彼はペルーに農場を所有していたが、暴動で撃たれ、悲劇的な最期を遂げたと言われている。
==
日本語の文献でセーゲルらしき名前が登場するのは、下記の通り。

■藤永田278年 藤永田造船所編 1967年出版
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I014226795-00

■藤永田278年補遺 永田常次郎 著 2001年出版
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002995787-00

■太政類典第2編第68巻外国交際11外入(明治7)9月10日 (国立公文書館デジタルアーカイブ)
件名: 鹿児島県下製造所ニ於テ孛人セーカ雇入
「海軍省鹿児島県下製造所に於いて諸艦船修復のため外国人セーカを雇入」

海軍省上請
"外国人セーカ右は造船家の者に候 鹿児島県下当省所轄製造所に於いて臨時諸艦船修復のため同所へ差遣し置き度候て此際年限1カ年と相定め給料1カ月200ドルを以て相雇度候至急御許容被成下度此段上請仕候也9月5日"(以下省略)

http://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?XSLT_NAME=frame&NO=54&BID=F0000000000000000415&IS_STYLE=default&IS_TYPE=PDF&LANG=default&ID=M0000000000000845594&act=&GID=&IMG_FLG=&TYPE=AJAX

■東京都「都市紀要4」より 築地居留地31番 ビ・セーゲル
「明治5年7月10日より 独 ビ・セーゲル 海軍省」との記載あり。

「築地にあった洋式造船所の位置図」(明治5〜16年頃)
海軍製鉄所の隣に "セイガイ木下造船所" が存在。

■「日の丸船隊史」より神戸丸(電信丸)の消息
邦人の手で造られた鉄船としては、明治4年佐渡の戎港で新潟税関が外国の設計による鉄船新潟丸(64総頓)を造り、その翌年2月には大阪の川崎新田で興讃丸(121総頓) 同6年には東京築地のセイガイ木下鉄工所で神戸丸(251頓 後に電信丸と改称)ができ、さらに明治14年には阿波の徳島で効鉄丸(108頓)が造られた。

23:00 | histoire | - | - | |
2018.11.14 Wednesday

Tribunal militaire international pour l'Extrême-Orient :70 ans après

先日WWI終結100年の話を書いたばかりだが、今日はある人が東京裁判終結70年に関する新聞記事を送ってくれた。
文官としては唯一、A級戦犯として裁かれ露と消えた廣田弘毅。福岡県出身で初めて首相となった人物なので、このブログでも以前書いていた事を覚えていてくれていたらしく、とても有難い。
その記事には、廣田氏のお孫さんのコメントが写真入りで掲載されている。容貌がお祖父さんにとてもよく似ておられる。
城山三郎氏の「落日燃ゆ」で描かれた祖父の印象が世間では強かったようで、幼少の頃に学校で理不尽な目に遭ったりはしていなかったという。

絞首刑を宣告された7名は、2つのグループに分かれて、その時を迎えていた。
廣田弘毅は2番目のグループにいた。
ふと、1番目のグループの誰からともなく、万歳三唱をしよう、という話が持ち上がり、その万歳の声は2番目のグループの皆の耳にも届いてきた。
やがて、1番目のグループの刑が執行された。次は2番目のグループの番だ。

教誨師の花山氏に廣田は言った。
「今、漫才をやっていたでしょう?」
花山氏「いえ、そのようなものはやっておりません」

仏間に入り、読経のあと、廣田はまた言った。
「このお経のあとで、漫才をやったのではないか」
花山氏は、ああ、万歳ならやりました。それでは、あなたがたも、ここでどうぞ、と促した。

廣田は「あなた、おやりなさい」と、傍にいた別の者に促し、廣田は万歳には決して加わらなかった。

万歳を叫び、日の丸を押し立てて突き進んで行った先には何があったのか。
この期におよんでも、なお万歳を叫ぶのは、もはや漫才でしかないではないか…
廣田の痛烈な、最後の皮肉であった。

城山三郎「落日燃ゆ」にはこんな一節があったと記憶している。
実際にこのような会話のやりとりが行われたのかどうかは、定かではない。
廣田弘毅は、若い頃は駄洒落を飛ばすことも多く、その親父ギャグあふれる皮肉を散りばめた、数々の句が残されている。
後年は「自分のやってきた仕事が自分の全てであり、何らかの手記や辞世の句、遺言などを残すつもりはない、自然に生きて自然に死ぬまでだ」と、述べ、それは、若い頃から親しんできた、禅や論語のような東洋思想に基づく、彼なりのやり方なのであろう。
ともあれ「漫才」に関しては時々、議論にもなっているようだ。

廣田弘毅の長男の話では「父は一流の男でした。父はそういう冗談を言うような人ではなかった。」との事。
しかし、自分の父親の、家庭の外側での顔というものを理解している息子は、果たしてどれほどいるものなのだろうか。
また、別の文献では、博多弁では「万歳」を訛って「マンザイ」と言うのではないか、という仮説に基づき検証していたが、どうもはっきりしない結論に終わっていたようである。
個人的には、博多弁でそういう訛りがあるかというと、それはちょっと違うような気がする。ただ、どの地方にも年配の人や、鼻にかかったような声を出す人の中には、「バ」が「マ」に聞こえるような発音の人もいる。

別の視点から、花山教誨師と廣田氏との軋轢(というほど大袈裟なものではないにしても)を挙げる研究家もいる。宗教や思想上の考えの違いから、双方が相容れないものを感じていたため、花山氏が廣田氏について語っている部分には、「漫才」の話も含め、事実と異なる部分もあるのではないか、というわけである。こればっかりは、もう今となっては調べる術もない。

結局、謎は謎のままということにするしかないのかもしれない。70年も昔の話である上に、刑場での会話など状況が特殊すぎて、検証できなさそう。
(注: 2006年夏に出版された、小林よしのり著「いわゆるA級戦犯」によれば、廣田弘毅がこんな駄洒落を言うような人間だったならば、東京裁判で「軍が悪い」と証言したはずである、という説を展開している。そう言われてみれば、そうかもしれない。)

ある伝記には、執行に立ち会ったアメリカ人の談話として「廣田はまるで神のようだった。毅然として黙々と死の階段へと赴いた。その姿があまりにも神々しかったのが、今でも忘れられない」ともある。
この話も、本当に事実なのかどうかは不明だが、この手の伝説が作られやすいというのも、廣田弘毅のひとつの特徴のように思えてならない。

本題からは離れてしまうが、疑問がもう一つ。
この理不尽な顛末の直後、刑場からは、大変美しい音楽が流れてきていたと言われている。
この曲はいったい何だったのか、そもそもクラシック曲なのか日本の流行歌なのか、音楽好きとしては非常に興味深いところであるが、どこにもその曲に関する具体的な記述はない。
とても知りたい。大変美しい音楽というのが気になるところ。

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2018.07.30 Monday

Emil Wiegand 覚え書き

麒麟麦酒の前身となった、スプリング・バレー・ブルワリーの設立に関与したドイツ人醸造技師エミル・ヴィーガント(Emil Wiegand)に関する覚え書き。
ノルウェー生まれのウィリアム・コープランド (William Copeland 本名はヨハン・マルティニウス・トーレセン Johan Martinius Thoresen 1834-1902)というアメリカ人が、エミル・ヴィーガントというドイツ人とともに、横浜山手のきれいな泉の沸く天沼のほとりにビール醸造所を設立、「スプリング・ヴァレー・ブルワリー(泉の谷醸造所)」と命名した。これが日本最初のビール工場であり、通称、天沼ビールと呼ばれる製品を世に送った。

このヴィーガントという人物、コープランドと比較しても、生年や人となりを示すデータがなかなか見つからない。(そもそも、同姓同名が多すぎる。せめて生年だけでも分かれば絞り込めそうなのだが。)

文献を追ってまとめると、
 ドイツ南部、オーストリアとの国境に近いバイエルン地方(英語読みではババリア)にて出生(生年不明)
→横浜山手46番 ジャパン・ブルワリーの支配人兼醸造技師として米国で契約
→1869(明治2)年ヴィーガント来日。「ジャパン・ブルワリー」(日本で最初のビール製造)創立者G・ローゼンフェルトは技師ヴィーガントを招いて山手46番地で醸造を開始。その後間もなく、会社をL・クラインに委譲。
→ヴィーガント退職
→1870(明治3)年、山手68番に「ヘクト・ブルワリー」設立、J・B・N・ヘクトがヴィーガントの参加を得て営業
→解雇され、再び米国へ渡る(正確な年は不明)
→2年後、来日(正確な年は不明)
→1874(明治7)年「ジャパン・ブルワリー」廃業
→1875(明治8)年「ヘクト・ブルワリー」廃業
1875(明治8)年 ヴィーガントの賃借経営で「ババリア・ブルワリー」開業
→1876(明治9)年 ヴィーガントとコープランド、「スプリング・ヴァレー・ブルワリー」を共同経営。6月16日、広告を出す。
スプリング・ヴァレー・ブルワリーという醸造所はコープランドとヴィーガントの合名による工場であった。ヴィーガントは山手68番のヘフト醸造所に雇われたこともあり、のちにコープランドの醸造所に移り、おそらくは資金面を負担したものと見られている。
→1879(明治12)年、両者は不仲となり、ヴィーガントがアメリカに帰国。夏に米国総領事裁判所に組合解散の申請
→1880(明治13)年解散
→1884(明治17)年、単独経営となったコープランドは営業不振になり、番頭のイートンとの間にも訴訟沙汰が起きて 「スプリング・ヴァレー・ブルワリー」倒産

→1885(明治18)年、トーマス・ブレーク・グラバーの支援を受け、スプリング・バレー・ブルワリーは日本人投資家に売却され、ジャパン・ブルワリーとなる
→1888(明治21)年、ジャパン・ブルワリーは明治屋と一手販売契約を締結し「麒麟ビール」の販売を開始

コープランドは、後に日本人女性と再婚、自宅のビアガーデンを経営しながら、東京の磯貝麦酒醸造所の技術指導を行う。1893年に日本を後にし、グアテマラシティで商売を始めるが上手く行かず、1902年1月には日本に戻り、横浜の石川町に居を構えるが、翌2月には没することになる。コープランド夫妻の墓は横浜外国人墓地に建てられた。
スプリング・バレー・ブルワリーの跡地は横浜市立北方小学校となっている。ジャパン・ブルワリー社の後身である麒麟麦酒社の横浜工場、横浜支社では、コープランドの命日である2月11日と6月、墓前で、最新のビールを供えて、墓前祭が行われているそうである。

とりあえずディレクトリ関係をざっと見てみると
・1861-1874 記述なし
・1875 Bluff Directoryに以下の記述
Yamate#68 Hegt's Brewery
     F.Harryman , C.Priebee , Captain Purvis, R.N.,
Yamate#122 Spring Valley Brewery
Yamate#123 W.Copeland

Yamate#68の項には
N.J.B.NorrdHock Hegt(Absent)
Eyton, J.L.O
Harryman.F
Priebee.C
Thomsen.C
とある。

・1876 Yamate#68にWiegandの名前 "Ue-Gando"の名前
・1877 Yamate#123にWiegandの名前
・1878 Yamate#122 Spring Valley Beer Gardens
Yamate#123 Spring Valley Brewery
W.Copeland
E.Wiegand
C.A.Ronwick
J.L.O.Eyton
・1879 Yamate#123 Spring Valley Brewery
W.Copeland
E.Wiegand
・1880 Yamate#122 E.Wiegand
Yamate#123 W.Copeland
尚、1879年、1880年にはLadies Directory に、Yamate#122 Mrs.Wiegandの記述がある。
相方のコープランドには日本人妻がいたが、ヴィーガントは妻を伴って来日したのか、日本人妻なのかどうかも不明である。

Jeffrey W. Alexanderの著書「Brewed in Japan: The Evolution of the Japanese Beer Industry」でも、Wiegandの情報が少ない事に言及している。 J.D.Eyton がコープランドに宛てた手紙の末尾に「Many thanks for information about Wiegand」との記述があるが、消息はこの文章からは当然読み取れない。

22:00 | histoire | - | - | |
2018.06.04 Monday

マイクロフィルムは断念

ここ最近不調だったが、やはり6月に入り回転性の目眩がひどくなり、朝起き上がるのに勇気がいる。まるで船酔いしているようだ。駅のホームでは走る電車に吸い込まれそうになる。PC画面のスクロールも含め、動く物を見ると目が回るので見ないようにしている。
週明けに薬をもらえたので、そのうち真っ直ぐに歩けるようになる…はず。
でも、暫くのあいだマイクロフィルムの閲覧は難しそう。ただ、よくよく調べてみると戦前の旅券下附記録は事前に申請しておけば、原本を外交史料館に取り寄せる事も可能との事ではないか。知らなかった。時間と手間はかかるけど、紙の方が一覧性が高いし、必要なページを印刷する時だけマイクロフィルムを使えばいいのだ。なぜもっと早くこの事に気付かなかったのだろうか…。

14:00 | histoire | - | - | |

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