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2007.11.21 Wednesday

重光葵とその時代 昭和の動乱から国連加盟へ 特別展

永田町の駅から外に出ると、あちこちにこのポスターが貼られていました。
今年が没後50年ということもあり、今回の特別展が開催されたようです。
憲政記念館と特別展の看板

憲政記念館に入ると、特別展の詳細に関する小冊子がもらえたので、そのサービス精神に感激。
特別展のチラシと小冊子


それほど広くないスペースに、重光葵が愛用した小物や義足、ヴェルサイユ講和会議の通行証などの211点が、所狭しと並んでいました。写真に収めたかったのですが、残念ながら館内撮影禁止との貼り紙が。(湯河原や大分にある記念館も撮影禁止なんだろうか?)
あちこちに掲示されているポスターの重光葵の写真は、かなり恰幅が良いのですが、若い頃はかなり細い方だったようですね。

20分程度の映像も放映されていて、彼の生い立ちとともに歴史の流れが紹介され、激動の時代の中でも実に波乱に富んだ一生を送った人物だったということがよく分かります。

面白かったのは、重光を取り巻く人々、というコーナーで、広田弘毅や松岡洋右、長女の華子などとのエピソードが綴られていました。内容は、豊田穣の著作「孤高の外相 重光葵」に似たものがありますが、こちらの展示物にはそれぞれの人物の年表もあり、人物間の年齢差もひと目で分かります。

それにしても、重光葵の父親が漢学者であったせいなのか、名前の読み方が難しい。葵を「まもる」と読める人も少ないと思いますが(外交官時代、パスポートの名前を「あおい」と勘違いされて相当苦労したとか)、彼の弟の名前が蔵(おさむ)なのはともかく、兄の名前が簇(あつむ)なんて、読める人は果たしてどれくらいいるのでしょう。

"願はくば御国の末の栄行き吾名さげすむ人の多きを" 深いです。

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2007.04.30 Monday

鵠沼の家の跡地

かつて広田弘毅氏の別荘があった、鵠沼の松が岡の周辺は、数年前(おそらく平成14年頃)に取り壊され、今は数軒のモダンな家が建ち並んでいる。
住宅の合間には松林がところどころに広がっていて、規則正しく並んだ邸宅群の庭には、つつじの花がきれいに咲き乱れていた。

江ノ島から近く、周辺の道路は広くはないものの、区画が直線状に規則正しく区切られているので、道に迷うことはないと思われる。

鵠沼海岸〜松が岡1

賑やかな江ノ島から少し離れたところに、閑静な街が佇んでいる。


鵠沼〜松が岡2
おそらく、この松林のもう少し向こう側だと思われる。

鵠沼〜松が岡3
一角には、小さな公園もあった。木馬(?)がかわいらしい。

なお、ここからほど近い場所には、橘町通り郵便局という小さな郵便局があり、ここには「春風接人 弘毅」なる揮毫が額縁に入れられて飾られているそうだ。
郵便局長の祖父が広田弘毅氏とは散歩仲間だったそうで、その縁で、今もその書は、やや黄ばんだ状態で飾られているらしい。

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2005.12.28 Wednesday

ヒズ・エクセレンシー・ヒロタ

廣田弘毅が駐オランダ公使としてオランダに駐在していた時(昭和元年〜昭和4年、彼が49歳-52歳)の話。
ドライヴが趣味だった彼は、時おり現地のチューリップ農家に立ち寄っては、花や球根などをもらっていたとか。
ある日、彼の来訪に感激した農家の主人が、新種の黒いチューリップに「ヒズ・エクセレンシー・ヒロタ」(文献によっては「ヒズ・エクスセレンシー・ヒロタ」と書いてあり、どちらが正しいのかは不明)と命名し、彼にプレゼントした。その球根は日本にも持ち込まれ、日比谷公園に植えられたそうです。

このエピソードに尾ひれがついたのか、彼の数ある伝記の中には「彼はちょっとしたチューリップマニアで、オランダの邸宅の庭にはチューリップが咲き乱れていた」という記述もあります。でも、どうもそれはちょっと誇張が過ぎるように思うし、他の文献を見ても、やはり同様の見解が見られます。なぜなら、オランダの邸宅はかなり手狭で、庭などというほど立派なものはなく、隣家のライヴハウスからは大音量の音楽が聴こえてくるという有様だったので、チューリップをたくさん植える余地などないはず…だから。

興味深いのは、この黒いチューリップは、平成の今日、どこかに現存しているのだろうか、ということです。そこで、オランダや欧米の検索エンジンで検索してみたり、チューリップに詳しい人に文献を調べてもらいました。しかし、ついに現存しているかどうかは分からずじまい。ただ、日比谷公園に植えられていたりすれば、花の季節にすぐ分かるかも…何といっても「黒い」チューリップだから。

ちなみに、厳密な意味での黒いチューリップは自然界には存在しないそうです。黒っぽく見えて、実は濃い紫色なのだそうです。ヒズ・エクセレンシー・ヒロタも、おそらく濃い紫色なのでしょう。ヒズ・エクセレンシー・ヒロタ…原種ではなくても良いから、せめて、その孫品種とか曾孫品種でも良いから、一度実物を見てみたいものです。


クィーン・オブ・ナイト
我が家に咲いた、紫色のチューリップ「クィーン オブ ナイト」。
黒っぽい紫色のチューリップは、他に「ブラック パーロット」「ブラックヒーロー」「ブラックジャック」「ポールシェラー」などの品種がある。

日比谷公園のチューリップ日比谷公園のチューリップその2
日比谷公園に見に行ってみたが、それらしいチューリップは発見されず。

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2005.12.26 Monday

原宿の家

大岡昇平の著書「幼年」によると、廣田弘毅の長男と大岡昇平とは幼馴染で、当時は原宿にあった家を行き来していたそうです。「幼年」には、総理になる前の廣田弘毅本人や、大岡少年が「お姉さんだと思い込んでいた」静子夫人、他の家族たちの様子がいきいきと描かれています。「幼年」を読んだあとで原宿の路地裏を歩いていると、古き良き時代に遊ぶ子どもたちがひょっこりと出てきそうな気さえしてきます。

原宿の家は、東京大空襲で焼けてしまったため、後に練馬の仮寓に移ることに。

今は見る影もない町並み
当時、廣田弘毅が住んでいた原宿の家の周辺。散策してみると、古くて大きなお屋敷もあれば、近代的なマンションもあり、芸能人や作家の家(堂々と表札を出している)も見かけました。

近所には穏田(おんでん)神社がある。
近所には穏田(おんでん)神社がある。

周囲を見渡すと、こんな光景が広がっている。
周囲を見渡すと、こんな光景が広がっています。

表参道
10分ほど歩いて大通りに出たところが、今はブランド街の立ち並ぶ表参道。

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2005.12.25 Sunday

護国神社

大濠公園の敷地内、福岡市美術館の傍に、廣田弘毅の銅像が建てられています。少し離れた場所には、かつて彼の友人であり、福岡市長を長年務めた進藤一馬氏の像もあります。

廣田弘毅の銅像。
足元には緒方敏雄氏の名が刻まれている。

廣田弘毅の銅像。足元には緒方敏雄氏の名が刻まれている。

碑銘。撮影スペースの都合で上部が…(失礼)
碑銘。撮影スペースの都合で上部が…(失礼)

進藤一馬氏の像

進藤一馬氏の像


大濠公園の夕暮れ
大濠公園の夕暮れ

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2005.12.24 Saturday

廣田弘毅生誕の地

1878(明治11)年2月14日、筑前福岡那珂郡鍛冶町(現在の福岡市中央区天神3丁目)に産声をあげた。幼名は丈太郎。
大名尋常小学校時代は、友人たちとともに藺草や松葉を売り歩き、学資に充て、中学修猶館卒業まで、ここに育つ。
高校時代、論語「士不可以不弘毅」(士はもって弘毅ならざるべからず)に感銘を受け、自ら「弘毅」と改名。

現在、この生誕地には、ひっそりと小さな石碑が建てられています。
天神のビル街の雑踏から、ほんの少し路地裏に入ったところにある石碑は、飲食店の裏口にあり、周囲にはゴミ置き場、スプレーでの落書き…いかにも雑然とした空間に佇んでいます。よほど注意して探さないと通り過ぎてしまいます。
果たして、これが本当に、かつて総理まで務めた歴史上の人物の記念碑なのだろうか、と、疑いたくもなりますが、彼の伝記などを読み、飄々とした人柄に触れるにつれて、そういう疑念を抱くこと自体が無意味な気もしてきます。





「廣田弘毅先生生誕の地」
[廣田弘毅先生生誕の地]
「出光佐三氏による書」
出光佐三氏の書による





「昭和53年11月建立 生誕100年 30回忌」
昭和53年建立
都会の片隅にひっそり(黄色い矢印の先が石碑)
黄色い矢印の先が石碑 

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2005.12.23 Friday

戦後60年

かつて、福岡県出身の総理大臣がいたということを、長年、福岡に暮らしながら知らずに過ごしてきました。学校の授業などでも、聞いたことがなかったような気がします。憶えていないだけかもしれませんが、目立ちたがり屋(!?)の博多っ子であれば、"郷土が生んだ偉大な人物!"などと、何かにつけて騒ぎそうな気もするし…。でも、そういう記憶もないです。

石屋の息子でありながら、外交官を経て第21代総理大臣(在職期間:1936/3〜1937/2)に。これこそ、真の「平民宰相」と言える。平民宰相と言えば、通常は原敬が挙げられることが多いですが、原敬は実は名門出身なのであり、廣田弘毅の方が平民宰相の称号に相応しいのではないかと思います。でも、そういう意味で廣田弘毅の名を聞くこともないようです。

1948年12月23日、ちょうど57年前の今日、極東軍事裁判にてA級戦犯として処刑。なるほど、人々が彼に関して多くを語らない、語れないのはそのせい…!?
戦後60年の今年も、もうすぐ終わろうとしています。

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