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2018.01.30 Tuesday

144年前の謎

昨年末に急逝された方々のご遺族の方たちから、それぞれ忌明けを告げられた。ああ、本当にもう会えないのだなあと認識。とくに逆縁には心が痛む。
太政官布告としての服忌令が公布されて144年。時代とともに服喪儀礼が簡略化、短縮化しているのは果たしてご遺族にとって良いことなのか、どうなのか。

その服忌令の公布は明治7年。悲劇のニール号遭難事故と同じ年だ。遭難したとされる日本人は吉田忠七ただ一人。だが、気になる記事も発見。こちらもよく検証した方が良さそうだ。

この事故、いろいろと気になるが、情報がとても少ない。
例えば、遭難したとされるA.Bovenschen氏はロンドンにて船を予約、1874年2月1日、シンド号(Sindh)でマルセイユを発ち、上海へ向かっていた(注1)。
シンド号はフランスのメッサジュリ・マリティム社(The Messageries Maritimes)の蒸気船で、マルセイユ、イエメンのアデン(Aden)、スリランカのゴール(Galle)、シンガポール、バタビア、サイゴン、香港、上海、横浜航路を就航していた。
1874年1月26日付 The London And China Telegraph によると、乗客として、上海行きがBovenschen氏ほか4名、香港行き1名、サイゴンへ2名、バタビア3名、シンガポール4名、ゴール1名の名前がある。
さらに同年2月11日付の記事からは、横浜行きの乗客として Mr.Lawrence の名も追加されている。
シンド号は2月25日にゴールを出て、3月3日にシンガポールに到着。その後の状況は記載されておらず分からない。この便が偶々シンガポール止まりだったのだろうか。

一方、悲劇のニール号は同年3月13日に香港を出港している。シンド号にそのまま乗っていれば上海へも横浜へも行けたはずなのに、なぜわざわざ香港で下船してニール号に乗り換えたのであろうか。 シンド号はマルセイユ〜横浜間を50日間余りで結んでいるので、順調に横浜に向かっていたとすれば3月20日頃には横浜に到着できていたはずである。そのため、3月21日横浜到着予定であったニール号よりも到着が遅いからニール号に乗り換えたという推測は成り立たない。

1874年4月11日付ジャパン・ウィークリー・メールは、Bovenschen氏は行き先を変更して遭難したとあり、Mr.Lawrence.(イギリス人)も遭難者として併記されている。
遭難者リストの中には、シンド号でBovenschen氏と同じ船で上海に向かっていた4名の名前はなく(※要調査 ここが大事)、Lawrence氏と Bovenschen氏だけがシンド号からニール号に乗り換えている可能性がある。
つまり、シンド号が故障などの理由で乗客を全員ニール号に移したとも考えにくい。もちろん、紙面の都合などで他の乗船者名を省略した可能性もなくはないが。
同年同月のシンド号とニール号の大きな差異と言えば、ニール号にはウィーン万博に出品された国宝や美術品が満載されていた点である。
(注1)The London And China Telegraph 1874.1.26、1874.2.2、1874.2.11、1874.2.23

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